しかし、正体が発覚して工作を続けることができなくなった彼は、再び北朝鮮に戻って再起を図っていたがかなわず、最終的に研究員として100号資料室に配属されたのだった。

 100号資料室で彼は、資料研究・翻訳作業などを行なう傍ら、私たち日本人拉致被害者たちを管理するという役割を任されていた。彼がめぐみさんの入院に付き添うことになったのは、そういう理由からだった。

 1994年3月中旬のある日、私の妻に見送られるなか、チェ・スンチョルは運転手付きの車にめぐみさんを乗せて義州に向かうと言って出発し、数日後に戻ってきた。

 そして、病院まで遠くて途中道に迷いそうになったことや、入院先の病院の施設は思ったより良く、テレビもあったということ、担当の看護師がやさしそうな人だったことなどを、具体的に私たちに話したのを覚えている。

義州に入院した横田さんの
足取りを不自然に修正

 しかし、めぐみさんが義州の49号予防院に入院したはずだという、私たちの証言がやはり帰国後に伝えられると、北朝鮮当局は、めぐみさんが義州の病院に入院するために招待所を出たのは事実だが、急に方針が変わって翌日、急きょ平壌に戻り、平壌の49号予防院に入院したと修正してきた。

 チェ・スンチョルの話には、めぐみさんを途中で平壌に連れ帰ったなどという内容は一切なかったし、当時、彼が私たちにめぐみさんの行き先を隠す理由も思い当たらない。

 私は、のちに平壌49号予防院に移された可能性はゼロではないにしろ、1994年3月の段階では、めぐみさんは義州の49号予防院に入院したと確信している。

 なぜ北朝鮮当局は、めぐみさんをたった1日で義州から平壌に連れ戻したという、交通も通信も不便な北朝鮮では不可能に近い、不自然な主張をしたのだろうか。

 1ついえることは、めぐみさんが一時的にも義州の病院に入院したことにしてしまうと、平壌49号予防院に入院してすぐに「死亡」したという基本の筋書きが崩れてしまうからだ。