その根拠の1つは、金英男さんからとされる手紙の筆跡が、私が非常に見慣れた対外情報調査部の、チェ・スンチョルという人物の筆跡と酷似していることである。
実際、この手紙の筆跡について2006年6月に日本の民間団体から疑問が提起されると、金英男さんは翌7月、平壌での記者会見においてこの手紙が代筆によるものであったと認めた。
党中枢機関である対外情報調査部が、肝心かなめの日にちを間違えるといった、単純かつ重大なミスをおかすのかという疑問もあるが、私は十分あり得ることだと考える。
1994年3月、めぐみさんを病院に連れていった担当者はチェ・スンチョルである。日朝交渉の目まぐるしく急速な展開のなかで、直接の担当者が8年前の自分の誤った記憶をもとに、「死亡確認書」の「死亡」時期を決め、それに基づいて横田ご夫妻宛の手紙を書いた可能性が高い。
ましてや、その当時彼は、めぐみさんの入院の経緯を知っている私たちが、最終的に日本に帰り、事実を明らかにするとは思ってもいないはずであるから、慎重を期して確認する必要性は感じていなかっただろう。
元対日工作員チェ・スンチョルが
事件解決のキーパーソンになる
私は、「死亡確認書」の内容もそうだが、横田めぐみさんが最初から平壌49号予防院に入院したとされていることについても否定的にみている。
私たちは1994年3月に横田めぐみさんが平壌ではなく、平安北道義州にある49号予防院に入院したと、チェ・スンチョルから直接聞いた。
彼は当時、私たちが属していた対外情報調査部傘下の100号資料室(資料室とは、一線を退いた、外国語に堪能な工作員たちが外国語資料を翻訳したり、若い工作員に外国語を教えたりする対外情報調査部の附属機関である)の研究員だったが、もとは対日工作員で1978年7月に新潟県柏崎市の海岸から私たちを北朝鮮に拉致していった張本人である。
北朝鮮で知り得たところによるとチェ・スンチョルは、私たちを拉致して北朝鮮に入ったあと、数カ月間招待所を回りながら私を含む日本人拉致被害者たちに朝鮮語を教えたりしていたが、1979年に入って日本に再派遣された。