すなわち「死亡確認書」で布石を打ち、実際の視察で自らの報告の「一貫性」を印象付けようとしたと思われる。
ころころ変わる死亡日が
信憑性の低さを物語る
この経緯は横田めぐみさんの「死亡確認書」の作成に、平壌49号予防院が主体的には関与していなかったことを示している。
49号予防院の不関与は「死亡確認書」の(4)、「死亡日」をめぐる矛盾によって、より明確に確認できる。
「死亡確認書」には、「死亡日」が1993年3月13日とある。やはり北朝鮮側が提示した横田めぐみさんの元夫、金英男さんからの横田ご夫妻宛の手紙にも「幸せな生活を送っていたところ、1993年突然、病気でめぐみを失うという不幸が襲ってくるとは誰が想像することができたでしょうか」と書いている。
しかし、実際、めぐみさんは1986年秋から94年3月まで私たちとともに、大陽里の招待所地区で暮らしていた。
そして、この事実がのちに公表されると、北朝鮮側は、2004年11月、金英男さんのコメントとして「自分が錯覚していた。(死亡時期は)94年3月だった」と修正してきた。
「不幸に襲われた」と悲しみを表していた元夫が、妻の「死亡日」を錯覚するということ自体考えにくいことではあるが、それより大きな矛盾は、平壌49号予防院が自らの入院患者のこととして記入した「死亡日」が、元夫によっていとも簡単に覆されている点である。
これはめぐみさんの「死亡日」記入についても、平壌49号予防院が関与していないこととともに、横田ご夫妻宛の手紙の作成にも金英男さんが直接関与していない可能性を示している。
死亡確認や手紙の筆跡は
あの男と一緒だった
めぐみさんの住所や「死亡日」を含む「死亡確認書」、そして横田ご夫妻への手紙を作成したのは誰なのか。
私は、最も多くの日本人を拉致し、しかも工作員の逮捕などによって拉致事件の存在を世界に露呈させた責任を問われ、日朝交渉時に拉致問題対応を負わされた、対外情報調査部の関係者たちであると考えている。