旧制卒の佐藤春夫と
新制卒の中上健次

和歌山県の最南端にある新宮市。明治以来、有為な人材を多数、育んできた街だ。その核になったのが、旧制和歌山県立新宮中学・現新宮高校だ。
優れた文学者を2人、輩出していることがこの学校の自慢だ。旧制卒の佐藤春夫と、新制卒の中上健次だ。
佐藤春夫は、明治末期から昭和にかけて、「田園の憂鬱」などの小説、あるいは詩・随筆、文芸評論など多岐にわたる文筆活動をした。1960年には文化勲章を受章した。
新宮中学の入学時に志望を問われて「文学者」と答えた、というエピソードを持つ人物だ。詩・短歌・戯曲を発表し文才を早くから発揮していた。講演会の演説を巡って無期停学処分を受けたが、慶応大文学部予科に入学した。
熊野速玉大社境内に、東京・文京区にあった佐藤の旧宅を89年に移築復元した新宮市立佐藤春夫記念館がある。佐藤家から寄贈された多くの書物やゆかりの品などを収蔵、展示している。その館長・辻本雄一も新宮高校卒で、母校の国語科教諭を27年間務めた。記念館は建物老朽化などに伴う移転リニューアルのため、現在休館中で、26年度に新館オープンする予定だ。
佐藤の門弟は3000人といわれるほどだ。その1人に太宰治(旧制青森県立青森中学・現青森高校卒)がいた。1936年に太宰から芥川賞の選考委員を務める佐藤に宛てた芥川賞の受賞を懇願する手紙が、2015年に見つかった。佐藤春夫記念館で展示されている。「私を見殺しにしないで下さい」などと記した4mに及ぶ巻紙の書簡だった。
佐藤は谷崎潤一郎(旧制東京府立第一中学・現都立日比谷高校卒)と親友で、33年に谷崎が妻・千代と離婚し、佐藤は千代と結婚した。これが世に「細君譲渡事件」と言われ、世間の注目を浴びた。
もう一人の小説家は、46年生まれで、戦後生まれとしては初めての芥川賞を「岬」で受賞(76年)した中上健次だ。佐藤春夫とは「五百米とも離れていない所で生まれ育った」(中上健次「物語の系譜 佐藤春夫」より)という。
中上は紀州新宮・熊野を舞台にした数々の小説を書いた。自らの生まれた被差別部落を「路地」と呼び、複雑な血縁関係や土地の伝承などを題材とした独自の文学世界を築いた。92年に腎臓がんのため、46歳で早逝した。中上にがんを宣告したのは日比記念病院(勝浦町)理事長だった日比(ひび)紀一郎。中上とは新宮高校の同期生で、親友だった。
元報知新聞記者で時代小説・ノンフィクションの新宮正春、旅行作家の森本剛史もOBだ。史劇・劇作家の永田衡吉もいた。