忠誠を誓った人物からの
手痛い幕府批判

 処罰対象者は藩主クラスもいたが、中・下級武士も多く、吉田松陰や橋本左内、梅田雲浜や頼三樹三郎など、学者層も多い。画家や名主、町人や僧侶も含まれる。つまり幕府自らが彼らの影響力を認めていたにもかかわらず、それらの層に説明も説得もなされなかった。

 説明、啓蒙の大切さについて、旧幕府の関係者が指摘をしている。

 福地源一郎。下級ではあったが幕府の能吏として知られていた福地は、自著『幕府衰亡論』(明治25[1892]年)の最後に、たたみかけるように政策説明と啓蒙の大切さを説いている(以下意訳)。

「軽々しく攘夷で外国船を襲ったりせず、平和外交に徹したのは幕府の見識であり力である。もしこのとき、『開国して欧米の文明を取り入れ、近代化したあとに外国と対抗すべし』と明示すれば、幕府の威令はもっと続いたであろう」

「安政5、6年の頃なら、もっと朝廷に丁寧に、一所懸命開国の理を説いていれば、幕府の信用をつなげた」

「文久1、2年の頃なら、はっきりと『鎖国政策は終わった』『攘夷はやらない』と明言し行動すればよかった。それなのに外国船を攻撃した長州や薩摩に対して、幕府はそれを止めにいかず戦争させて放っておいた」

 福地源一郎は徳川慶喜を敬愛し、旧幕府に対する忠誠心を強く持ち続けた人物だけに、その幕府批判は傾聴に値しよう。

 幕府の政策は根本から間違っていたのか?もしそう間違えではなかったとしたら、それは人々に対する伝え方に問題があったのではないか。

 明治政府の「欧米列強の文明を取り入れて近代化し、その後に欧米と対応する」という方針は、実は井伊直弼も攘夷の本山・水戸の徳川斉昭も考えていたことであった。

 政治的には井伊直弼に連なる、そして官軍に処刑された小栗忠順は横須賀製鉄所をはじめ、のちの陸軍士官学校につながる横須賀仏蘭西語伝習所をつくり、小銃や大砲の国産化、日本初の火薬工場設立、日本初の巨大商社(兵庫商社)や錦絵でも有名な築地ホテル館建設、さらには近代郵便制度の基本まで考えている。