しかし、阿部の試みは阿部自身の死去によって消えていく。そして同じく多党化を敏感に感じた井伊直弼は、阿部とは正反対に多党化を許さず、幕府一強を守るため政治的粛正を行なった。

 井伊直弼の死後、徳川慶喜が政権の座につくと、慶喜は多党化を受け容れようとした。

「政権を一度朝廷にお返しし、その後雄藩による連立政権をつくり、国政運営経験の豊かな私がそのトップに座る」という構想を抱いた。大政奉還である。

 ところが薩長は、もはやただの雄藩ではなく徳川幕府をも凌駕する政治勢力に育っていた。

 幕府はもっと早期に連立政権を実現すべきであったし、そうすれば幕府では掌握しきれない、「多党」の持つ多様な意見を政策に反映することができた。

多党化が進んだ理由は?
不満のはけ口が必要だった

 第2に、政策ニーズの把握不足である。

 なぜ多党化が進んだのかといえば、それは幕府が世論に鈍感で、取りこぼした世論があふれかえっていたからである。取りこぼされた人々は、自分たちの不満を代表してくれる勢力を支持する。

 現代の日本政治で言えば、これだけデジタル化が進みビッグデータの活用基盤が整っていても、政治中枢でこれらを駆使した情報収集、課題抽出をしているとは寡聞にして聞かない(一部議員は活用しているが、政府や党の取り組みとして十分とはいえない)。

 国会議員が地元で直接有権者の声を聴くのは当然として、そこに無い声をどうやって政策に反映するのか。幕府がついに実現できなかった点でもある。

 そして第3に、説明・啓蒙の圧倒的不足。筆者は特にこの点を強調したい。

 黒船来航から15年で幕府は崩壊する。この間、政権を運営した老中たちは各地の雄藩や、必要に応じて朝廷にも理解を求め説明を行なっていた。

 しかし幕府が説得したのは主として、幕府内の実力者や親藩大名、有力譜代大名、せいぜい雄藩と言われる外様大名までであった。

 安政の大獄での処罰対象者を見れば、世の中を動かす層がもはや大名クラスではなく、より幅広くなっていることがわかる。