現代のように多様な流通が存在するならまだしも、100万の人口を抱えた江戸が流通経路から外されモノが減れば、物価が上がるに決まっている。
幕府は、雑穀や呉服、生糸など生活必需の五品について「江戸に廻せ」と廻送令を出す。ただし商人や外国人からの反発もあり、中途半端に終わった。
命令が徹底できないほど、幕政は衰えていたのである。外圧も、それに影響を受けた物価高も、連動して起きる打ち壊しや一揆、京での勤皇派による暗殺事件の頻発など、立て続けに問題が起きた。
時代に乗り遅れた幕府の政策
しかしもし開国をしなかったら…
これらが解決しない理由は何であったか。幕府の政策決定と実行力が、もはや時代のスピードに追いつかなくなっていたことに尽きる。個々に見れば幕府は、与えられた条件の中でベストとは言えないがベターな政策選択を行なっている。
たとえば開国。もし開国をしなければ、欧米列強は力で攻め込んできたであろうし、そうなれば日本の敗戦は必至であった。傍証として第二次長州征伐の折、近代兵器と近代戦術を駆使した長州軍が、数で言えば30倍の幕府軍に勝利したことからも明らかである。
そして尊皇攘夷を謳う勢力に倒される幕府だが、形式上とはいえ「朝廷から政権を預かっている」という体裁で天皇を上位に置いていた。
象徴的なエピソードとして、尊皇攘夷派から蛇蝎のごとく嫌われていた会津藩の松平容保が、孝明天皇から下賜された宸翰(天皇からの御手紙)を生涯肌身離さず持っていたことが知られている。つまり松平容保は勤皇家でもあったのである。
現実的な平和外交。出来うる範囲ではあったが、懸命な経済政策。勤皇の精神。一体何が幕府への支持を失わせしめたのか。もっとわかりやすく言えば、「物価が上がったのは幕府が開国したからだ」「悪いのは幕府だ」「やつらは何もしてくれない」、そう人々に思わせたものは何であったのか。
第1は、多党化への対応の遅れである。黒船来航によって幕府一強から、薩長など雄藩や朝廷が発言力、つまり政治力を持ち始める。老中・阿部正弘はその予兆を嗅ぎ取って、それまでタブー視されていた御三家や有力外様大名が参加した連立政権を模索する。