後年の八雲作品は、彼の記憶の片隅からアイルランド的な断片が表に出てきたとも言えるでしょう。つまり、八雲が描いた日本は、きわめてアイルランド的想像力を通して見た世界とも言えます。
古き日本の風景を
八雲は愛していた
2016年の熊本地震の発生から時がたちましたが、今も熊本城には地震の爪痕が見えます。重要文化財建造物の13棟のすべてに被害があり、約50箇所の石垣が崩れた、と聞きました。どっしりとして、象徴的な存在感を放つ熊本城です。天守などおもな建造物は1960(昭和35)年に再建されたといいます。
1891(明治24)年11月、八雲が第五高等中学校(編集部注/現在の熊本大学の前身)の教師として赴任した時には、こんなに立派な天守はありませんでした。熊本は日本最後の内戦である西南戦争の戦場になり、お城の大半は焼け落ちました。
八雲が熊本に赴任した14年前、1877(明治10)年の2月、西郷隆盛率いる1万3000人の薩摩軍は東京に向かって出発します。その経路にあたる熊本鎮台のある熊本城に総攻撃を仕掛けました。籠城する政府軍に対し、薩摩軍は2カ月近く城を包囲します。3月に始まった田原坂の戦いは半月ほど続き、約10万人が動員され、死傷者3万5000人を数えたという凄惨なものでした。
熊本城の天守が焼け落ちたのは籠城戦のさなかで、原因は不明だそうです。
天守は加藤清正が築城して以来の、壮大な城下町のシンボルでした。江戸時代から景観を保ってきた城下の建物も、戦災によって多くが失われてしまいました。
神々の国の首都・松江からやってきた八雲です。松江は古代から続く歴史、風土が底流する土地柄です。熊本城と同じように象徴的な存在、松江城は明治維新の後も廃城を逃れ、築城以来の佇まいが保たれていました。
八雲にはこの城下町だけでなく、古き良き日本を存分に感じさせる出雲大社や山陰の随所に追憶があります。
そのせいでしょう。同じ城下町であっても、八雲には戦災で古いものが失われた熊本の街が殺風景に見え、残念な思いを抱いていました。
「わたしがこれまで日本で住んでいた一番興味のない都市であることに変わりはありません」







