戦争と科学の進歩に
風景の喪失を見た
こんな後ろ向きな心情を松江への赴任以来、公私にわたって支えてくれた親友・西田千太郎(編集部注/ドラマ「ばけばけ」で吉沢亮が演じる錦織友一のモデル)への書簡で明かしています。
熊本に赴任した1891(明治24)年の3年後、日清戦争が開戦となります。欧米列強へ追いつけ、という軍拡が続く頃でした。軍事費が国家予算の多くを占めていきます。
西南戦争の激戦地になった熊本にはその後、陸軍第六師団という大きな組織の司令部が置かれました。「軍都」として勢いを増し、「兵隊であふれている」と記したように熊本市が変わってゆく様に、八雲の気持ちは曇りがちでした。変わらぬ自然を尊び、見えざる世界に真理を求めるのが彼の生き方です。
その頃、友人の日本学者バジル・ホール・チェンバレンへの手紙(1893年12月14日付)では、こんな胸の内も明かしています。
「人生に生きる目的を与えてくれたのはゴーストです。(略)彼らは私たちに生きる目的、自然を畏怖することを教えてくれました。ゴーストもエンジェルもデーモンも今はもういません。この世の中は電気と蒸気と数字の世界になってしまいました。それは味気なく、空しいことです」
この第五高等中学校は1887(明治20)年、帝国大学に入るための学力養成機関として創立されました。いわゆるナンバースクールで、後に第五高等学校と改称され、八雲の退任後になりますが、英国留学に向かう前の夏目金之助(漱石)も勤務しています。卒業生として昭和の高度経済成長時代に首相を務めた池田勇人や佐藤栄作らがいます。
校長の嘉納治五郎から
「日本の精神」を学ぶ
良き出会いもありました。
出迎えた校長は、柔術の大家として知られる嘉納治五郎(1860~1938)です。八雲はこの人物にひかれました。
西田にこんな風に知らせています。嘉納はこれまで会った日本人の誰よりも立派に英語を話す、としたうえで、
「性格は同情心にあふれ、まったくかざらず正直です。これは人格のできた人の特色といえるでしょう。一度会っただけで、久しい友であるかのような気がするのです」
柔術の稽古も見学に行きました。直線的に動こうとする西洋人とは違い、敵の攻撃する力をうまく使って敵を倒す様子に驚いています。いわば、暴力の裏をかく精神の鍛錬だと感じ入っていました。







