中曽根はレーガンとの絆で
難局突破を図ったが…

 サイドレターにあるように、日米半導体協議は1985年7月に開始。きっかけは、前の月に米半導体工業会(SIA)が日本の貿易慣行は不公正だとして、通商法301条による「報復措置」を求め提訴したことだった。

 USTRが調査を始める一方、米商務省は86年4月下旬、日本製半導体が米国内で不当な安値で販売されるダンピングがあるとする仮決定をするなど、摩擦熱は高まる一方だった。

 2018年末公開の「日米半導体協議」ファイルの文書は、この米商務省のダンピング仮決定から始まり、1986年5月からの大詰めの日米協議を経て9月のサイドレター作成へと展開する。

 そこへ進む前に、少し手前の中曽根の日記と、日米首脳会談の議事録を見ておく。日米貿易摩擦を日本の危機と捉え、自ら交渉の司令塔となり、レーガンとの絆で乗り切ろうとした中曽根の心象風景を押さえておくためだ。

 中曽根はB5版のノートに日記を綴っていた。首相の頃の日記を抜粋して活字にしたものが、『中曽根内閣史 資料編』(1995年)に収録されている。

 1984年の大晦日。中曽根は85年の日本外交について抱負をこう記している。

《「レーガンとの友情を更に強く固く、それが、対ソ、対中、対朝鮮半島、対アセアン、対欧、外交展開と平和確立の鍵であり、(日米)両国の財宝である」》

 ところが3カ月後の1985年3月26日になると、書きぶりが緊迫している。

《「日米経済摩擦、米国側より日米危機説しきりに来る。米人の心裡読みきれず日米戦争起こる。日本今日優位にあり、戒心すべきこと。大巾に譲っても不合理でない」》

 海軍主計少佐として終戦を迎えた人物の言葉だけに重い。

 その後に始まった日米半導体協議は膠着状態のまま、1986年4月の日米首脳会談を迎えることになる。

ローマ帝国と戦い滅びた
カルタゴのようになる

 では、その会談の「極秘」議事録を見てみる。

 この文書が含まれたファイル「中曽根総理米国訪問(1986年)」は外務省による年末公開の対象ではなく、筆者が外交史料館で閲覧したものだ。2022年に外務省から移されていた。