全国高校サッカー選手権で
歴代最高記録となる7回優勝
神戸高校は「質素剛健」「自重自治」を四綱領と呼んでいる。受験勉強に明け暮れるのではなく、ほとんどの生徒が部活動に取り組み、自己実現を目指している。「文武両道」を貫いている、ということだ。
部活動では、ボート部や馬術部、かるた部など、他校にはあまりないバラエティーに富んだ部も含めて、44もの文化部、運動部などがあり、ほとんどの生徒が何らかの部に属し、熱心に活動している。
創立以来、輝かしい記録を残した部もある。
硬式野球部は、旧制時代に選抜高校野球大会(現在の春のセンバツ甲子園大会に相当)に3回、夏の全国大会(現在の夏の甲子園大会に相当)に4回出場した古豪だ。
全国高校野球選手権大会の地区大会に1915年の第1回から皆勤出場している高校は全国で15校しかないが、神戸高校はその中の一校に数えられる。
プロ野球では、中沢不二雄が初代パシフィック・リーグ会長を務めた。1959年6月に開かれた展覧試合(巨人対阪神戦)において、昭和天皇・皇后への解説を担当した。
サッカーは「校技」と言えるほど盛んだった。全国高校選手権に25回出場し、うち7回優勝している。現存する高校の中では歴代最高記録だ。ただし、1980年代以降は低迷し、全国大会出場からは遠ざかっている。
多くの有力選手が育った。日本代表選手になった者は、累計で20人を超え、日本サッカー殿堂入りした選手も数人いる。
例えば戦前の神戸一中卒には日本代表選手として、東洋紡績会長をした大谷一二や慶応大で活躍した右近徳太郎、1956年のメルボリン五輪に出場した鴇田正憲らがいた。戦後の1951年の第1回アジア競技大会サッカー競技では、選手枠16人のうち10人までが神戸一中のOBだった。
日本サッカー協会の13代会長をした大仁(だいに)邦彌も、神戸高校の卒業生だ。慶応大ー三菱重工業に進んで活躍したのち、サッカー指導者になった。
長岡康規は元兵庫県サッカー協会会長で、国際審判員としても活躍してきた。
1924年生まれの賀川浩は、1974年の西ドイツ大会から40年間もサッカーW杯を取材してきたサッカージャーナリストだ。2015年にはサッカー界の発展に寄与した人に贈られる国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を、日本人として初めて受賞した。10年には日本サッカー殿堂入りした。24年12月に99歳で死去した。
ラグビーでは、八幡製鉄副社長を務めた湯川正夫が日本ラグビーフットボール協会会長をした。
奥村竹之助は京大―三菱商事でラグビー選手として活躍、1952年に日本代表監督になった。
花谷泰広は登山家で、神戸高校時代から山岳部に所属し、信州大に進んだ。2012年、ネパールのキャシャール南ピラー(6770メートル)を初登頂した。13年に「登山界のアカデミー賞」の異名を持つピオレドール賞を、同行者2人とともに受賞した。(敬称略)
(フリージャーナリスト 猪熊建夫)







