負傷者が続出し
現場はパニック状態に
その日は9月の三連休の土曜日で天気もよく、畳平は朝から大勢の登山者や観光客で賑わっていた。
山小屋「銀嶺荘」のオーナー・小笠原芳雄(59歳)が悲鳴を聞いたのは、建物の前で掃除をしていたときだった。悲鳴が上がったのは魔王岳の登り口となっている石段のところで、そこにたくさんの観光客や登山者が群がっていた。急いで駆けつけてみると、男性が倒れており、その上にクマが覆いかぶさっているのが見えた。
羽根田治『人を襲うクマ』(山と溪谷社)より転載 拡大画像表示
取り囲んでいる人は30~50人ほどもいただろうか。「これは危ない」と思い、小笠原は周囲の人たちに「クマが向かってくるかもしれないので、ツアーの方は乗ってきた観光バスの中に、そのほかの方は近くの建物の中に避難してください」と勧告した。
そのあと、石井を襲っているクマに向かって、10メートル離れた場所からパンパンと手を叩くと同時に大声を上げた。
「とくに『お客さんを守らなければ』というようなことは考えませんでした。クマの注意をこちらに向かせるつもりで、気がついたら無意識的に行動していました。当然、自分も警戒していたし、充分逃げられると思ってました」
目論見どおり、クマは小笠原の存在に気づくと、石井への攻撃をやめて猛然とこちらに向かってきたので、小笠原は急いで銀嶺荘の中に駆け込もうとした。
クマの目は
真っ赤に充血していた
だが、そのときに想定外の誤算が生じた。小笠原といっしょに現場に駆けつけた銀嶺荘の男性従業員が、逃げる途中でつまずいて転倒してしまったのだ。そこにクマが追いついて男性にのしかかり、攻撃を加えた。
小笠原は銀嶺荘の近くまで逃げていたのだが、従業員が襲われているのを見て引き返し、再び手を叩いて大声を上げた。その音に反応して振り返ったクマの目を、小笠原は今でも忘れない。
「そのときのクマの目は真っ赤に充血していました。クマは目と目を合わせると興奮するとよく言われますが、それはほんとうだと思いました」
従業員から離れたクマは、小笠原に向かって突進してきた。再び走って逃げ、銀嶺荘の玄関の前まで来て振り返ったら、目の前にクマがいた。
振り向かなければよかった
二本足で立ち上がったクマ
「振り向かなければよかったのに、つい振り向いてしまいました。それがいけなかったんです」
最初に石井を襲っているクマを見たときは、全長120センチぐらいの大きさかなと思っていたが、二本足で立ち上がったクマの身長は160センチほどもあり、ちょうど小笠原の目の高さにクマの顔があった。
とっさに小笠原は左手でクマの右腕をつかんだが、太いうえに毛並みで手が滑った。次の瞬間、左腕で顔面に一撃を喰らった。そのままうつ伏せに倒れ込んだ上にクマがのしかかってきた。とにかく頭部を守ることだけを考え、両手で後頭部を抱えて防御姿勢をとったが、右手にクマが噛み付いてきた。
そのとき、目の端に小笠原の長男が近づいてくるのが映った。「来るな」と叫ぼうとしたが、声が出なかった。駆けつけた長男が思い切りクマの腹を蹴りつけると、クマは標的を長男に変えて襲いかかっていった。のちに小笠原が長男に「なんであんなバカなことをしたんだ」と問うと、「親父が死ぬと思ったからだ」と言われた。







