「私らが若いころは『新人類』なんて呼ばれていて。なんか似たような話ですね」

 新人類は1986年の流行語大賞である(なんと清原和博さんらが受賞している)。戦後の焼け跡から急成長を遂げ世界に存在感を示した日本を知らずに生まれ育った若者は、無気力だったり迎合主義だったり一風変わったようにみえたらしい。

 新人類は当初は若者全般を指していたものの、だんだん死語になっていく。Z世代とやらも同様に、あってないようなモノを表現しているにすぎないのだろうか。

多様化とか個性化を重視の時代に
世代でくくってしまうのは横暴?

「Z世代など存在しない」と言い切る方もいる。

「よくある世代論もそう(筆者注:個別性が強いもの)です。例えば『Z世代』という主語でまとめて語られることが多いですが、実は彼ら彼女らの仕事観は真っ二つに分かれている。転職を前提としている人が半分、一つの会社でできるだけ長く働きたいと思っている人がもう半分。これを平均値で見ても意味がないですよね。マーケティングの世界は別として、少なくとも労働の観点においては、私は『Z世代』自体が存在しないと考えています」(「中央公論」2025年4月号、中央公論新社)

 Z世代は存在しないというのである。ほんまかいな。

 実際のところZ世代という響きに胡散臭さを感じる方もいるだろう。誰かが作った流行り言葉で本当は存在しないと言われたら、そうかなと思うかもしれない。

 そして根拠や背景として「個別性の強さ」が同時に語られる。世代を統一した傾向を語り得ないのは人それぞれで個性があるからだと説明づける。多様性を尊重する時代に、世代論はもはや古臭いというところだろう。

 令和は多様性の時代と聞くたび、じゃあ昭和や平成は多様ちゃうかったんかいと思わなくはないけど、まあ細かいことはおいとこう。

 とりあえずZ世代論に対する代表的な反論のひとつが、多様な個性の時代に世代論などおおざっぱすぎるという意見なのである。