ギリシア哲学の巨人アリストテレスは、『詩学』の中で、悲劇を観る観客が恐れや憐憫といったネガティブな感情を抱きつつも、同時にそこに一種の「快」を見いだす現象を、「カタルシス」と呼びました。

 現実の苦しみとはちがって、物語の中で感じる悲しみは、どこか心をやさしく揺さぶってくれるようなところがあります。物語に感動して泣いたあとは、抱えていた重苦しい気持ちがふっとほどけて、少し楽になっている。

 そんな不思議な作用があるからこそ、この現象は古代から現代に至るまで、多くの哲学者や批評家にとって興味の対象であり続けてきました。

 わたしたちが物語に涙するのは、まさにこのカタルシス――感情の浄化を体験しているからと言えるでしょう。

 近年の脳科学の観点からも、同じ構造が明らかになりつつあります。

 わたしたちは物語を観ながらただ悲しんでいるだけではなく、「登場人物たちと一緒にその悲しみを乗り越えている」らしいことがわかっています。

 たとえば「泣ける作品」を観ているとき、まず、脳の中の扁桃体という部位が「悲しい」という情動をとらえます。扁桃体は、「不安」や「恐怖」といった感情の起点になる場所で、感情を素早く察知し、反応を引き起こす役割を持っています。

 けれど、それだけで終わりません。

 扁桃体と同時に、「感情の意味づけ」や「情動の調整・抑制」に深く関わる前部帯状皮質(ACC)という領域が活性化していたのです。

 つまり、泣ける物語を観ているとき、わたしたちの脳は「ただ悲しみを感じている」のではなく、「その感情をどう捉えるか」「どう悲しみを乗り越えるか」という整理をしている、と考えられます。

 泣いたあとに少し気持ちが落ち着いたり、前向きになったりするのは、こうした脳の働きによって、「悲しみの出口」がちゃんと用意されるからなのだと思います。

 このように、感情を味わいきる→意味づけする→乗り越えるという流れがあるからこそ、人は「悲しい体験」の中で、「ああ、泣けてよかった」「すっきりした」と感じることができるのです。