巨人入りを発表する江川卓 Photo:SANKEI
1978年秋、怪物投手・江川卓をめぐり、球界を揺るがす「空白の一日」事件が起きた。その陰で糸を引いていたのが、読売グループの実力者・渡邉恒雄である。彼は社内外の反対を押し切り、紙面を使って江川獲得の空気をつくり出した。さらに時を経た2011年、巨人軍のコーチ人事をめぐって再び“強権”を発動する。読売巨人軍元球団代表としてナベツネと対峙した清武英利が語る、絶対権力者の実像とは。※本稿は、清武英利『記者は天国に行けない 反骨のジャーナリズム戦記』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。
権力をほしいままにする
渡邉恒雄に逆らえる者はごくわずか
奔放不羈な社会部のスター記者だった本田靖春(編集部注/ノンフィクション作家。1984年、『不当逮捕』で第6回講談社ノンフィクション賞受賞)が、正力松太郎社主時代の読売新聞を飛び出したのは1971年、37歳のときである。
それからも彼はずっとおんぼろアパート暮らしで「由緒正しい貧乏人」を自称したが、さばさばした気分で、ただの一瞬も自分の取った行動を悔いたことがなかった、と書いている。
私も東京・深川に近い賃貸住宅に暮らしていたが、2011年11月のそのとき(編集部注/当時、渡邉と清武はコーチ人事をめぐって激しく対立。渡邉は江川のヘッドコーチ招聘を主張して譲らない一方で、清武は外様の血を入れた組閣を主張した)すでに61歳で、本田ほどの太い肝は持ち合わせていなかったので、さばさばした気分どころか、「今日は死ぬのにとてもよい日だ」といった大げさな言葉を呟きながら日々を過ごしていた。
「死ぬのによい日だ」というのはもともとネイティブ・アメリカンの死生観を表現した言葉らしいが、私が相手にしようとしたのは、「最後の独裁者」を自称する渡邉恒雄である。
ネイティブ・アメリカンの言葉の断片や、岡倉天心の歌った「奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」といった、ことさら勇ましい一節を口にして自らを鼓舞しなければ一歩先へ進むことができなかったのだ。







