このとき、脳内では「常識VS非常識」がバトルを繰り広げています。常識がこう囁ささやきます。「弱さを生かすなんて、そんなことやめなよ」「うまくいくわけないじゃないか」「余計な努力なんてしても無駄だよ」。良識があり、まっとうな声です。うん、そう。確かに一理ある。「強さは素晴らしくて、弱さは殲滅!」という常識的な考えに沿って周りに合わせて生きれば、大きな失敗はないかもしれない。

 だけど、モヤモヤしている状態で、常識に従いすぎること。それはもしかしたら後悔する道かもしれない。数年後、数十年後、いやもしかしたら自分が死ぬ瞬間に、「やっぱり弱さをもっと追求しておけばよかった」なんて悔やむかもしれない。モヤモヤという小さな結晶を誤魔化したことで、後々巨大化したモヤモヤ雪だるまとなり、襲ってくることがあるかもしれない。

 でも、浮いた状態は心もとない。200人と話して、「一人ひとりの弱さを、社会を良くする宝物に変えたい」という気持ちはあるけれど、地に足がついていないから、どこかへ飛んでいってしまうんじゃないかと不安。だから人は、「まいっか」と少し悟ったような目をしながら、結果的には社会の流れに自分を合わせてしまうんです。

言葉が担っている
重要な役割とは?

 こんなときに、コンセプトが堂々と浮くための足場になります。コンセプトとはつまり言葉ですが、ではそもそも言葉の役割とはなんでしょうか?

 言葉は、ふわふわした何かに存在を与える。

 私たちはみな、名前がないふわっとした赤ちゃんという状態で生まれてから、名前がある確かな存在へと変容します。名前という言葉が与えられることで、私は私という存在になるのです。

 作家の開高健は、かつてライオンに関してこのようなことを語っていました。私たち人間がまだ「ライオン」という言葉を獲得していなかったとき、ライオンとはなんか強くて足が速くて爪と牙が痛そうな、「恐ろしさの固まり」でしかなかった。