納める側にとっては、その名目が法定であろうがなかろうが、納入する金額がすべてです。こうして規定以上に割り増しした分を着服するわけですから、われわれの感覚からすれば、これはまごうかたなき汚職であり、「官吏の腐敗」です。
当の官吏たちからすれば、そうでもしなければ生活できなかったのも事実でした。何しろ官員は薄給で、吏員に至っては無給なのです。
つまり、こうした「汚職」は、官吏たちがその生活を維持し、地方行政を円滑に進めるための「必要悪」だったということです。
そのため当時は、官吏が生計の不足分を補うために、常識的な節度を大きく逸脱しない範囲で行うことであれば、中央は見て見ぬ振りをしていました。
中国では賄賂をもらうのは
あたりまえの権利
しかし問題は、その節度・境界が、きわめて曖昧だということです。何をもって「常識的な節度」とするかは、実際に取り立てる官吏の自制にゆだねられていたからです。
となれば、「常識的な節度の範囲」が官吏にとって都合よく拡大されていくのは、明らかです。
こうして、「三年清知府、十万雪花銀(3年間、清廉な府知事をつとめれば、おびただしい銀が手に入る)」という慣用句が生まれるほどの財産を、官員はわずか3年の任期間の「汚職」で獲得するようになっていったのです。
こうして中国では、汚職を汚職と見なさない感覚が、中央にも地方にも、士にも庶にも根づいていきました。
よく「なぜ中国では、官僚の汚職・腐敗問題が解決しないのか」と問われることがあるのですが、若干違和感を覚えます。中国で行われているものが、われわれ日本人がいう「汚職・腐敗」と同じものなのかというと、そうではない部分もあるので、非常に難しいのです。
日本の「汚職・腐敗」には、きちんとした線引きがあります。これは賄賂であり、これは横領であるというのが、明確に定められているからです。
中国には、そうした線引きがありません。
汚職が必要悪として認められているぐらいですから、中国で賄賂が公認同然だったのも当然の帰結でした。もはやかれらにとって賄賂は、もらうのがあたりまえの権利と化しているのです。







