科挙によってコミュニティから1人代表者を出せれば、そのコミュニティは恩恵に浴すことができるのでおとなしくなりますが、誰も科挙に通らないと、そのコミュニティはアウトロー集団になり、社会の危険分子となっていく。

 だからこそ、全員が力を合わせて、コミュニティの中で最も才能のある者を科挙に合格させるためにバックアップしたのです。儒教・科挙がなくなれば、その代替が必要です。

 中国人はコミュニティに帰属しているためにバラバラで、1つになりえないのです。でも、1つになりえないからこそ、「1つの中国」と叫び、為政者は力でそのバラバラなものをまとめ上げざるをえないので、独裁になりがちなのです。

 なぜ1つでなければならないのか、については、中国の為政者が常に感じている、この「バラバラに対する恐怖」が然らしめるところなのでしょう。

 1つでないといけないという観念が、バラバラになる恐怖を生み出し、その恐怖がいよいよ統一に駆り立てるということです。

 だからこそ中国共産党は、世界の国々がいくら非難しても、モンゴルもチベットも尖閣も1つに組み入れようとするし、香港の民主化を絶対に許さず、台湾も決して手放そうとしないのです。

深入りしない関係が
中国とうまく付き合う鍵

 後述する「官民乖離」に「コミュニティへの強い帰属意識」、そして「1つの中国」。

 どれも日本人にはなかなか理解しがたい感覚ですが、この3つは遅くとも明代以降、いまに至るまで、様態は違えども本質は変わらずに、中国がもちつづけている特徴といえるものです。

 そうした特徴をもつ中国と、日本はどのようにすればうまくつきあっていくことができるのでしょうか。

 正直にいえば、この問いに対する正解はまだ見えません。

 とはいえ、隣同士に位置する以上、日本は中国とこれからもつきあっていかなければなりません。そこで思い起こしたい漢語の成句が、次の言葉です。

「君子之交淡如水、小人之交甘如醴」