これは『荘子』にある言葉で、「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」と読みます。

 意味は、「よくできたすばらしい人の交際というものは水のようにサラリとして深入りをしないもので、つまらない人の交際は甘酒のようにベタベタしている」というものです。

 中国との交わり方は、「水の如し」がいいと思います。

 深入りするのはよくありません。とくに相手のことがわからないのに深入りするのは、相手に対して失礼、自分にとって危険です。

 長い中国の歴史を見てきていえるのは、日本と中国の関係が悪化するのは、中国に日本が深入りしたときです。日本と中国は、関係が深くなると、必ず悶着が起きるというのが、歴史の教訓です。

 日本と中国の関係が最もうまくいっていたのは、清の時代なのです。なぜうまくいっていたのかというと、この時代は日本が鎖国をしていたため、必要最小限度の交流しかしていなかったからなのです。

 あの時代こそ、日中の理想形でしょう。

中国の歴史を学んだ上で
「君子の交わり」をめざす

 人間関係でも、人によって「うまくいく距離感」は異なるものです。国と国の関係にも、近づきすぎてはいけない相手がいるのです。中国に対して、ただ「国際ルールを守れ」と喧嘩腰に騒ぎ立てるのは、やはりうまいつきあい方とはいえないでしょう。

 とはいえ、何かあったときに、日本が自分の立場を崩してまで譲歩するのも間違っています。言うべきことは言わなければなりません。その場合、重要なのは言い方です。

 アメリカは、何もかも「国際ルールでなければ許さない」という強い立場で相手を威嚇しますが、日本とアメリカでは国力も違えば、地理的な条件も違います。それに、過去にどのような関係を築いてきたのかも異なります。

 歴史的に日本がかれらにとってどういう国であったのか、ということを、われわれは歴史に学び、わきまえたうえで初めて、つきあっていくスタートラインに立てるのだと思います。

 でも歴史を学んだら、それでわかり合えるのかといえば、そんなに「甘」いものではないと思っています。

 だから、「水の如し」がいいのです。

『教養としての「中国史」の読み方』書影『教養としての「中国史」の読み方』(岡本隆司、PHP研究所)

 日本人が中国人を理解できないということは、裏を返せば、中国人も日本人を理解することは難しいということです。

 日本人は、政治も経済も、官も民もすべて一体があたりまえなので、一体でないとおかしいと感じます。でも中国人は、士と庶、官と民が乖離している二元社会があたりまえなのです。

 違ってあたりまえ。違うのだから、完全にわかり合えなくてあたりまえ。そうした意識をもって、わからないなりに、相手を理解しようとするのが、歴史や異文化を学ぶということなのではないでしょうか。

 そして、学んだうえで「君子の交わり」をめざすのが、日本が中国と良い関係を築く方法なのではないかと思います。