似た例として、樫永先生がベトナムのタイ族の話を教えてくれた。フランス語で「奴隷」と訳される「コンファン」は、直訳するとまさに「家の人」。コンファンは、たしかに売買もされるし財産として扱われる。しかし、才能があれば貴族にもなれた。
「おもしろいのは、階級制がなくなって半世紀以上経っても、正月になるとコンファンだった家族がかつての殿様の家に遊びに来るんですよ。元奴隷の子孫たちが、元主人の子孫の家に嬉しそうに手土産もってね」
たしかにこうした話を聞くと、奴隷制という概念に抱いていたイメージがかなり揺らいでくる。我々には強烈なイメージが刷り込まれているが、その言葉の定義はじつは曖昧なのだろう。鈴木先生は言う。
「結局、奴隷の定義はできないと思うんですよね。『奴隷制として廃止されたものが、奴隷制である』としか言えないというか」
鈴木先生は続けた。
「たとえばですよ。ヨーロッパの封建社会やロシアには、領主や貴族に所有されていた『農奴』がいました。でも、それなら、日本の江戸時代、いちばん貧しかった最下層のお百姓さんはどうなんだ?ということになります」
「芸者は奴隷じゃない」と言えず
国際裁判が動かした明治の日本
支配階級と土地に縛られ、財産も持てずに年貢を納めた小作農たちは、いったい奴隷とどう違うのか。
そしてさらに、19世紀以降盛んになる世界各国での奴隷制の廃止は、必ずしも人道的動機だけから行われたわけではないと先生は指摘する。それに関わる話として、日本の芸娼妓解放令について語ってくれた。
明治時代、ペルーに向かう予定だった船から、日本政府が230人の清国人クーリー(下層労働者)を救出し、清に返そうとした。日本はその労働者たちを「奴隷と同じ人身売買だ」として、ペルーへの出航を阻んだ。
「するとペルー側は国際裁判で、お前たちの国だって奴隷がいるじゃないか、芸者だよと反論したんです。日本の遊女の年季証文を持って、人身売買じゃねえかと言ったんですね」
結果として日本政府は芸娼妓解放令を出し、遊女制度に打撃を与えた。
「でも、これって慌てて解放したもんだから、すぐに抜け道ができて、行くあてのない人は残ったし、形式を変えて売春制度は続いていきました」







