アメリカでは、技術進歩や新しい企業の登場などによって賃金が上昇し、これが牽引して物価が上昇するという変化が起きていた。他方で、日本ではそうした変化が生じなかったため、物価上昇率が低かった。
22年ごろ以前の緩やかな円高への動きは、このような実体経済面での日米間の違いによるものだと考えることができる。
22年から23年にかけては、それまでの傾向が反転して、購買力平価が円安になっている。これは、日本の物価上昇率が高まり、日米間の物価上昇率の差が縮小したためだ。
日本の物価上昇率が高まったのは、輸入物価が高騰したためだ。そして、輸入物価の高騰の大きな原因の一つは、市場為替レートが円安になったことだ。この場合は、市場為替レートが購買力平価に影響を与えている。
なお購買力平価は、24年には若干円高になっている。24年の購買力平価の値は、1ドル=95.1円だ。
日米金利差が拡大すると
円キャリー取引で市場レートは円安に
市場為替レートは、外国為替市場における取引によって決まるわけだが、これに大きな影響を与えるものとして、日米間の金利差がある。
いま、日本円を借りて資金を調達し、それをドルに投資し、一定期間後に日本円に戻す取引を考えよう(このような取引を「円キャリー取引」という)。
日本の金利がアメリカの金利に比べて低く、かつ近い将来に大幅な円高になる見通しがなければ、この取引は利益をもたらす可能性が大きい。
将来の市場為替レートは予測することができないので、円キャリー取引のリスクは大きいのだが、金利差が十分大きければ、利益が得られる可能性が高く、リスクを取ることが正当化されるだろう。
ところで、円キャリー取引は、円を売ってドルを買う取引だ。したがって、これが増加すれば市場為替レートは円安になる。
そして22年には日米金利差が拡大し、大きく円安に振れた。FRB(米連邦準備制度理事会)が急速な利上げを行ったにもかかわらず、日本銀行がそれに追随しなかったからだ。
22年3月、FRBは政策金利の引き上げを開始。その後、22年を通じて急速な利上げを実施した。一方、日銀はYCC(長短金利操作、イールドカーブ・コントロール)で緩和政策を維持しており、短期金利はマイナス0.1%に固定されていた。
このため日米金利差は急拡大し、そして円キャリー取引を通じて、急速な円安が進んだ。市場為替レートは、それまでの1ドル=110円程度の水準から、140円を超える円安になった。
市場レートと購買力平価の乖離拡大
円高にならない不思議
市場為替レートは22年以降、1ドル=140~150円程度の水準だ。他方、購買力平価は、1ドル=95円程度の水準でほぼ変わりがない。このように、市場為替レートと購買力平価の乖離が極めて大きくなった。
最初に説明したように、市場為替レートと購買力平価が乖離すれば、裁定取引が生じるはずだ。いまの場合は、購買力平価が市場為替レートよりずっと円高であり、乖離は拡大しているのだから、日本から輸出することが大きな利益をもたらすはずだ。その結果、実際にドルを円に換える動きが増え、市場為替レートが円高になるはずだ。
ところが実際には、市場為替レートが円高にならないのだ。なぜならないのか?
アメリカの景気が日本より好調だからなのか、「デジタル赤字」など構造的な円安要因の存在が高まっているからなのか、さまざまな見方はあるかもしれないが、市場為替レートと購買力平価の乖離拡大は、現在の日本経済が抱えている大きな謎の一つといってよい。
(一橋大学名誉教授 野口悠紀雄)







