ダーウィンは、自分の理論を実証する直接の証拠を集めることはできなかった。その代わり、ハトの飼育によって、飼育家が望む多種多様な人工の品種が、たった1つの原種からいかにしてつくり出されてきたかなど、間接的な証拠をできる限り列挙した。

 そして、論理的な推論を行なった。ダーウィンが、進化論に実質的、科学的な裏付けを与えようとしたことは大いに評価できるのだが、この段階では、百歩譲ってまだ「進化論」でもよかったかと思う。

略称のまま理解すると
本質を見誤ってしまう

 その後、この分野の研究は格段に進んだ。

 まずは、遺伝の仕組みが解明され、遺伝子の実体がDNAという物質であることがわかった。そして、生態学が進み、生物と環境との関係の理解が進んだ。

 最近では、遺伝子の全貌を読み取る全ゲノム解析も可能になり、試験管の中で進化を起こさせる実験進化学も進んだ。

 こうしていまでは、進化の考えはたんなるひとりの人間による考察にはとどまらず、「量子物理学」や「有機化学」のように、1つの大きな学問分野を形成している。

 中心となる理論があり、探求するに値する研究題目が、研究者仲間の間で共有されている。さまざまな仮説が構築され、それらが検証されている。だから、いまでは、「進化論」ではなく、「進化理論」であり、「進化生物学」なのだ。

 しかし、考えてみると、「相対性理論」という正式名称に対して、「相対論」という略語がある。同じように、「進化理論」を縮めて「進化論」にしているのだろうか?

 それなら、それほど目くじらを立てることもないかもしれない。いや、しかし、どうもそうとは思われないので、ことさらに「理論」と「論」の違いをいつも言い続けている。

差別的なニュアンスを持つ
社会進化論と混同する人も

 さて、世の中には、進化生物学が、「社会進化論」と同じものだと思っている人がいるらしい。

「社会進化論」とは、19世紀半ばにハーバート・スペンサーという英国の哲学者・社会学者が唱えた議論で、人間の社会は、原始的な状態から徐々に高度なものへと向上していくという考えだ。