小町さんは5月21日、呉に帰ってきた。すぐに休暇をゆるされ石川県に帰郷したが、その頃にはすでに「珊瑚海海戦での大戦果」が鳴り物入りで報じられており、小町さんも郷里の人々の熱狂的な歓迎をうけた。休暇が終わって帰るときには、村の人たちが総出で見送ってくれたという。

ピンチの連続だった
第二次ソロモン海戦

 翔鶴は、ソロモン諸島ガダルカナル島の争奪戦に参加するため、8月16日、瀬戸内海を出航した。8月24日、日米機動部隊が激突。日本側は小型空母龍驤を失い、米側はエンタープライズが大破した。この戦いを「第二次ソロモン海戦」と呼ぶ。

 小町さんは、敵機動部隊攻撃の直掩機として出撃した。

「零戦10機にグラマンは50機以上。とにかく味方の攻撃隊を守ろうと、敵機が攻撃してくる前に突入していきました。もう、ピンチの連続です。ふと攻撃隊の進んだ方向を見ると、敵艦隊が右往左往している航跡が見え、なかに空母が1隻、大火災を起こしているのが見えた。

 それを見て、よし、攻撃は成功した、グラマンを引きつける役目は果たしたと思い、機をきりもみに入れました。下にはまだグラマンがうようよいましたが、その真ん中を突っ切って、そのままきりもみで降下していき、高度1000メートルで立て直して、やっと離脱することができました」

横須賀に帰還し
戦闘機隊は解散へ

 翔鶴は、昭和17(1942)年11月6日、横須賀に帰還した。ここで戦闘機隊は解隊され、総員が交代して新しく再編成されることになった。小町さんの次の任地は、大村海軍航空隊である。

 解散にあたり、艦長・有馬正文大佐が、生き残りの全搭乗員を前に別れの訓示を行った。

「航空戦に素人の私が指揮をして、君たちを大勢死なせてしまった、申し訳ないと、滂沱たる涙をぬぐおうともされません。訓示をしながら、涙が頬を伝わって顎からポタポタ落ちているのが見えました。それを見て、内地勤務を喜んでいた自分の心が恥ずかしくなりました。立派な艦長でしたよ」

 大村空の教員となった小町さんは、その直後に結婚した。妻は敬虔なクリスチャンで、海軍に入った頃からの長い交際だった。