一時は、キリスト教の教えと戦闘機搭乗員の任務との葛藤に互いが悩んだ時期もあったが、珊瑚海海戦から帰った頃、
「あなたが殺意を抱いて人を殺すのなら許されないけど、国家のために義務を果たすのだから」との手紙があり、内地帰還を機に結婚の運びとなったのである。とはいえ当時のこと、式は挙げられなかったという。
「家内が身ひとつで下宿にやってきて、今日からどうぞよろしく、それだけです。だから、いまの結婚式なんか見ると羨ましいですよ」
大村空での新婚生活を経て、小町さんにふたたび戦地行きの転勤が発令されたのは、昭和18(1943)年11月のことだった。行き先は、ラバウルの第二〇四海軍航空隊である。
「着任してみると、積極的に攻めていく時期は終わっていて、まさに最後の砦として攻撃されっぱなし。びっくりしましたよ。毎日、敵機が200機も300機も空襲に来るんだから。
朝めしを食べて、そろそろ来るぞ、と言ってたら、カンカンカンカン、空襲警報の鉦が鳴る。こちらの戦闘機は3~40機。それが毎日減っていく。整備員が必死の努力で機数をキープする、そんな毎日でした。
その後、第二五三海軍航空隊に転勤になりましたが、やることは一緒。『おいお前、明日から二五三空に行ってくれ』と言われ、ハイ、と言って隣のトベラ飛行場に引越しただけです」
米軍による空襲で
日本側兵力は壊滅状態に
小町さんがいたラバウル郊外のトベラ飛行場は、80余年後のこんにち、椰子のプランテーションになっていて、飛行場の姿は見る影もない。だが、かつての滑走路の端にあたる場所に広場があり、そこには数機分の零戦の残骸が残っている。平成25(2013)年4月、私が訪ねたときには、ここでなにがあったのかも知らぬであろう現地の子供たちが、零戦の残骸の上で遊んでいた。
昭和19(1944)2月17日、連合艦隊の重要拠点であるトラック基地群が米機動部隊による大空襲を受け、所在航空部隊もふくめて壊滅状態になったのを機に、2月20日、二五三空の主力23機は、ラバウルよりトラックに後退した。







