トラックは空襲の爪痕も生々しく、小町さんが進出した竹島飛行場は、爆撃でできた穴だらけだったが、その後も米軍の大型爆撃機・コンソリデーテッドB-24による絶え間のない空襲にさらされていた。
小町さんはここでも連日、三号爆弾(空中爆弾)(編集部注/空対空兵器で、クラスター爆弾の一種)をもって邀撃に上がり、戦果を重ねた。
6月11日、12日と、米機動部隊はのべ1400機にのぼる艦上機をサイパン、テニアン、グアム各島の攻撃に発進させた。2日間の空襲で、マリアナ諸島に展開していた日本側航空兵力は壊滅した。米艦隊はさらに、13日にはサイパン、テニアンへの艦砲射撃を開始している。
6月15日、米軍がサイパンに上陸を開始する。連合艦隊司令長官・豊田副武大将は、マリアナ決戦を意味する「あ」号作戦発動を下令した。
6月19日から20日にかけ、日米両機動部隊が激突。しかし日本側は、空母3隻と搭載機の大半を失い、またもや大敗を喫した。この戦いは「マリアナ沖海戦」と呼ばれる。
米軍機に撃墜され
機体は火を噴く
マリアナ沖海戦が始まった6月19日、岡本晴年少佐の率いる二五三空零戦隊13機が、トラックの竹島基地を発進してサイパン島の敵上陸部隊攻撃に向かった。
トラックからサイパンまでは約600浬(約1100キロ)。航続距離の長い零戦でも、空戦を前提とした無着陸の往復は無理である。発進して飛ぶこと3時間あまり、やがて海の向こうにグアム島が見えてくる。岡本少佐は、ここで燃料補給をしようと高度を下げて編隊を解き、一列縦隊で着陸態勢に入った。
ところがそこはすでに米軍の制空権下にあり、約10機のグラマンF6Fが待ち構えていたのだ。
「高度500メートルで解散、一列縦隊になって、一番機・岡本少佐、二番機・栢木一男中尉、三番機・私の順で着陸態勢に入りました。まず岡本機が着陸し、栢木機がまさに接地しようとしたところでグラマンが上空から降ってきたんです。栢木中尉は左腕を機銃弾に撃ち抜かれて重傷を負いました。そのときの私の高度は100メートル足らず。完全に着陸態勢に入っていたので失速寸前の状態でした。急いで脚を上げ、フラップをおさめ、機銃の安全装置をはずして戦闘態勢に入りましたが、スピードは急には上がりません。
そのとき、栢木機を撃った敵機が、下から撃ち上げてきました。曳痕弾が飛んでくるのがはっきり見えたけど避けようがない。カンカンカン、と命中音が聞こえ、『やられた!』と思ったとたん、煙とガソリンが操縦席に噴き出してきて、次の瞬間、バン!と爆発しました。炎で目も開けていられないし、息もできない。顔に吹きつける炎を避けようと機体を横滑りさせてみたけど、全然効果はなかった。
しかし、生きる本能でしょうかね、目も見えないのに、もう海面だ!と思ってエンジンのスイッチを切り、機首を引き上げたところがドンピシャリ、海面でした。よくあの数秒の間に着水の操作ができたと思いますね」







