小町さんは、顔と手足に大火傷を負ったが奇跡的に助かり、数日後、迎えの陸攻(編集部注/海軍の陸上攻撃機)に乗ってグアムを脱出、トラックに帰り、そこから病院船氷川丸で内地に送還された。この病院船は、現在、横浜山下公園に係留されている「日本郵船氷川丸」である。
玉音放送後も
米軍と空中戦を展開
小町さんは2カ月の入院ののち、京都府の日本海側に急造された練習航空隊・峯山海軍航空隊の教員となり、まもなく准士官である飛行兵曹長に進級。昭和20(1945)年6月、横須賀海軍航空隊に転勤、ここで終戦を迎えた。
「天皇陛下の玉音放送は聞きましたが、意味がよくわかりませんでした。そのうち情報が入ってきて、終戦だと。想像もしなかった事態で、びっくりしました。敗北ということと、日本を明け渡すということがどういうことにつながるのか。数日間は、デマと想像で神経がピリピリして、殺気立っていました」
しかし、戦いはまだ終わっていなかった。
玉音放送は国民に終戦を告げるものではあっても「停戦命令」ではなく、大本営が陸海軍に、自衛のための戦闘をのぞく戦闘行動を停止する命令を出したのは8月16日午後のこと。8月19日、海軍軍令部は、支那方面艦隊をのぞく全部隊にいっさいの戦闘行動を停止することを命じるが、その期限は8月22日零時であった。
8月18日。横空では、終戦が告げられてもなお、機銃弾を全弾装備した戦闘機が列線に並べられ、搭乗員たちは戦う気概をみなぎらせて指揮所に待機していた。
『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』(神立尚紀、講談社)
「敵大型機、千葉上空を南下中」
との情報に、搭乗員たちは色めきだった。
「それ、やっつけろ!と、みんな気が立っていますから、われがちに飛び上がった。私は紫電改に乗って、真っ先に離陸しました。東京湾の出口付近で追いついて、ラバウル、トラックで鍛えた直上方攻撃で一撃。敵機に20ミリ機銃弾が炸裂するのが見えました。余勢をかって急上昇して、伊豆半島の上でもう相手はとにかく、降下しながら全速で逃げるものだから、紫電改でも二撃が精いっぱいでした。零戦だったら、とてもあそこまで追えなかったと思います」
零戦、紫電改、雷電計十数機が邀撃。このB-32は墜落こそ免れたが、機銃の射手が1人、機上戦死した。この件に関して米軍からのクレームはなく、これが日本海軍戦闘機隊の最後の空中戦闘になった。







