そうすることで、男尊の「尊」の方を引き下げ、自然なかたちで同権の状態にし、人の目に触れたときでも見苦しくないような体裁に仕立て上げる。こういった工夫が肝心だろう。
たとえば夫婦の間でも、言葉遣いを丁寧にして、礼儀や姿勢を慎しむことだ。妻を呼ぶときも、その名を呼び捨てにしないで「○○さん」と言って、手紙を送るときでも横柄な文章をつづらずに、宛名も「殿」と書かず「様」の字を使う、といったことである。
こういうのはなんの障害もないし、こうしたからといって主人たるものの重みが減るわけでもない。
かえって家風を優美、高尚にしていくことができるから、子供もこういうのを自然に見習っていく。
最終的には、家の中にあった粗野な雰囲気は、跡形もなく消えてしまうだろう。
そもそも、人心の非を正すというのは難しいけれど、外形的に改めるのは簡単だ。わが国で女権がふるわないのは、もっぱらその「形式」に問題があるのだから、改良していくのはまったく難しくないだろう。
女性はどうして
「女性らしく」あるべきなのか
婦人はいつも醜い言葉を口にせず、醜い格好を嫌がる。ときどき、男子が少し優しげな雰囲気でなれなれしくしてきたら、かえってこういうのを嫌って、近づいてこなかったりする。
一見すると「無情」のようだが、内実は決してそうではない。日頃の嗜みとして、あくまで優美さや上品さを重んじて、清浄無垢を装っているのに、人からちょっかいをかけられて応じるようでは台無しなのだ。それでは、自らの理想を傷つけて、女性が女性である意味を失ってしまうから、ことさらに超然としているのである。
つまり、その「無情」は、あふれる「多情」の裏返しであって、正真正銘の武士がみだりに武を語らず、武に誇らず、胸中の深いところに勇気を収めているようなものだ。武人は、これを「沈勇」と呼ぶ。婦人のそれは、「沈情」と名付けてもいいかもしれない。
勇猛さを誇る武人は、真の武人ではない。浮ついた気分の婦人は、まだ「愛情」の真相を知らないのである。







