以上のような意見が、どこまでも間違いがなく、女性の心身はすべて「愛情」の1点のためにあるというのが、事実であり明白なことであるとしよう。
ならば、昔も今も、識者がこのあたりのことに深く言及することはなく、凡俗たちの流れに乗って雷同し、婦人の婚姻問題を放ったらかしにしてきたのは、人間社会におけるひどい不手際だったと言える。
とくに、百千年も続く悪習慣である「男尊女卑」は、凡俗だけでなく、いわゆる学者や識者のたぐいにまで浸透している。彼らが本に書いたり人に教えたりしている内容は、結局のところ、婦人を抑圧して不自由にさせることであり、それを「淑徳」と呼んでいるのだ。
『福翁百話』(福沢諭吉著、奥野宣之訳、致知出版社)
表では、言葉遣いや挙動の優美さを奨励しておいて、同時にその裏では、その愛情のきっかけを抑えつけているのに、恥じることもなく知らんぷりだ。この世の中で暮らす無数の女性たちを、ほとんど窒息寸前のひどい状況に至らしめたその原因が、学者の罪でなくてなんなのか。
ひょっとしたら学者は、婦人がおしとやかで物静かだから、訴えてくることはないと思っているのかもしれない。自分は安全圏にいるから気を払わなくていい、といった考えは、ものごとの日なただけを見て、日影に目を向けていない。
俗に言う「人情知らずの愚」と呼ぶべきだろう。







