日本ではアーティストが政治・思想を前面に出すのは、近年わずかに流れが変わりつつあるが、依然としてやや例外的ではある。
SNSで考えを表明したり自我を出したりといった機会は増えたが、「○○党支持です」といった決定的なところにまではほとんどの場合、言及しない。日本では政治色のない音楽の方が万人ウケはしやすく、雰囲気を鑑みて、あえて政治・思想の発信を控えているアーティストは多い。
といったことを差し引いても、なのだが、浜崎あゆみも大槻マキも、外交の悶着に一番目立つところで巻き込まれた稀有な立場だから、そういう人こそ一言物申してよさそうなのに、そこは敢えて黙して音楽で語る……とした姿勢がかっこよかったわけである。
「無観客でも世界中のファンの愛を感じた」
SNSでの言語センスも光る
浜崎あゆみの無観客ライブが「かっこいい」とされたもうひとつの理由は、ステージを神聖なものとして扱っている点である。
浜崎あゆみのSNSの発信頻度や言語化のうまさの妙が光っていると、今回調べてみて感じた。「大勢のスタッフと作り上げてきたステージの上で、無観客でも世界中のファンの愛を感じた」というような、ちょっと改まっていてクサくなりそうな発信をスッと示すことができる(ちょっとクサいくらいの温度感を愛するファン層、という見方もできるかもしれない)。
それに、無観客の会場でパフォーマンスを行うという行為が絶妙で、何かに祈りを捧げているかのような神々しささえ漂った。
ステージを神聖なものとしてとらえ、全身全霊で勤め上げようとする矜持を持つアーティストは、誇らしいことにたくさんいる。ただ今回の浜崎あゆみの場合は、
・行ったことの特異性(直前の中止要請からの無観客ライブ)
・日中間の緊張が高まる中で注目度も高かった
・余計なことを一切言わなかった、ファンに向けての発信
などが目立ったためこれだけ話題を集めたといえようか。
「ステージは神聖なもの」という哲学は、聞くだけで背筋が伸びるような、演者にとっても観客にとっても不可侵であってほしい目標だが、中国当局が大槻マキのステージを強制中断したのはステージの神聖性を真っ向から壊しにいっている明示的な例であり、浜崎あゆみとは真逆のことを行っているわけである。
見せしめめいたやり方は外交的には効果が高いが道義的にどうかというところで、政府の行いに対して相当憤慨している中国のファン・一般人も散見される。
文化が政治や社会に影響を与えたヒッピームーブメントなどの例もある。文化が広げるうねりのエネルギーは甚大であり、中国当局はこれをどこまでコントロールするのか。今しばらくは緊張感ある攻防が続くであろう日中関係の中で、その趨勢を占えるはずである。







