議論の余地がない人種差別に
「悪気はない」は通用しない

(1)「差別=悪意があるかどうか」ではない

 日本でありがちなのが「本人に悪気がなかったのだから」「冗談なのだから」という擁護だ。しかし、今回のような場合に重要なのは本人の意図ではなく、このポーズが歴史的にどのように使われてきた表現かである。

 西洋にYellow Peril(黄色い脅威/黄禍論)と呼ばれる反アジア感情があることは事実で、アジア人の特徴を「異質」「奇異」と見なして警戒してきた歴史的背景がある。

 これを象徴するのが「slant-eyed(つり上がった細い目)」で、この言葉自体がアジア人への侮蔑語、人種差別擁護とされる。

 このような背景があるポーズをしてしまうこと自体が問題であり、「悪意がなかった」「知らなかった」は、目立つ立場、責任ある立場にいる人ほど許されない。

(2)「自分がやられたことがない」=差別ではない、ではない

 日本人が日本で暮らしている限り、「つり目ポーズ」に出くわすことは少ないだろう。だからピンと来ないこともあるが、ひとたび海外に出た場合、さまざまな形でアジア人差別に遭遇することがある。

 それは「単なる嫌がらせだろうか、それとも人種差別だろうか」と判断がつかないものから、明らかな人種差別に当たるものまでグラデーションがある。

 相手に差別の意識がない、無自覚の偏見(マイクロアグレッション)の場合もあるが、差別される側は、このような偏見や差別が積み重なることで疲弊していく。だからこそ、あからさまな行為があった場合には強く抗議しなければならない。

(3)海外では「説明が要らない段階」に

 日本では、ひとつひとつのケースについて「ケースバイケース」であるかのように、その都度議論になりがちであるが、海外ではつり目ポーズは差別であるという共通認識がすでに形成されている。すでに議論の余地がないのにもかかわらず、政治家が擁護したことに驚きと反発があった。

 今回の騒動を改めて振り返ってみるに、筋の悪い擁護は追加燃料にしかならないことがよくわかる。

 誰かの言動が非難されている際に、「叩かれすぎではないか」と思ってしまう場合は誰にでもあるし、特にそれが友人や知人であればなおさらだろう。しかし今回のように、それが差別を指摘されているケースであれば、公の場で擁護を行うことは、当事者の足を引っ張ることにしかならない。

 日本も今後、人種差別に関連する炎上は増えていくかもしれない。その中で、どう対処・対応できるかが試されている。