それは武家では、関白秀吉、内大臣織田信雄に次ぐ地位であった。以後、秀長は「羽柴大和宰相」と称された。
この時期、奈良では「秀長は菊亭晴季の養子になった」あるいは「秀吉が新王(天皇に代わる国王)になり、秀長は関白になる」といった噂が流れた。
これはまったくの誤情報であったが、このことから、世間では秀吉の後継者は秀長であると目されていたことが読み取れる。
宿敵・徳川家康を配下に収めたのも
秀長の取次があってこそ
天正13年10月2日、秀吉は島津義久に大友家との停戦を命じる「九州停戦令」を出している。
このとき、秀長は島津家と大友家双方に対して取次を務めていて、島津義久からの返事は秀長宛で届いている。
一方、同年7月に秀吉は、家康に対して家老から人質を出させることを要求していたが、家康はこれを拒否。これにより秀吉と家康の対立は決定的となった。
このことが影響したのか、同年11月、徳川家で秀吉の取次(原文では「取り次ぎ」プレビュー時に版元さまに要確認)を担当していた家老・石川康輝(数正)が出奔し、秀吉を頼ってきた。この事件を機に、秀吉は家康討伐を表明し、翌年正月の出陣を決定している。
ところが天正13年11月、畿内を中心に大地震が発生し、秀吉の領国では深刻な被害が生じた。そのため秀吉は家康征伐を取りやめ、家康を従属させることに方針を転換させた。
なお、同年12月、秀吉の後継者と目されていた次秀勝が、18歳で病没している。
年が明けて天正14年(1586)正月、秀吉は、秀長の領国である和泉で、石川康輝に所領を与えることを決めている。
これは当時、秀長が康輝を保護する立場にあり、それ以前から康輝と関わりを持っていたこと、さらには徳川家康に対しても、秀長が取次の任にあたっていた可能性をうかがわせる。
同年正月24日、織田信雄が三河岡崎城を訪問して家康と会談し、家康は秀吉への従属を決断。それを受けて秀吉は、2月8日に家康を赦免することを表明した。
なお、このとき家康は従属の条件として秀吉の妹・朝日(南明院殿)を妻に迎えることを要求しており、同年5月に婚儀が行われた。これによって家康は、秀吉・秀長の義弟となり、その後、家康の政治的立場にも影響をおよぼす。







