なお、家康と朝日の結婚については、秀吉が妹を押しつけたとする説もあるが、これは江戸時代に定着した説で、実際には家康から要求したものであった。

幾度となく反乱に遭うも
足かけ5年のすえ紀伊を平定

 秀長による紀伊支配は、当初、安定していなかったようだ。

 天正14年(1586)7月、奥熊野の地侍が蜂起する「熊野一揆」が発生し、秀長方の泊城が攻撃された。これをうけて秀長は、8月28日に自ら出陣して討伐にあたっている。

 9月9日に合戦となり、秀長軍は多くの戦死者を出して敗北を喫しているが、同月23日までにはほぼ制圧したようで、秀長は同日に郡山城に帰陣している。

 ただし、その後も秀長の軍勢の一部が残り制圧を続けたらしく、同年11月には降伏してきた叛乱軍大将の山本某(保忠か)が奈良大安寺で処刑されている。

 ただし、これで紀伊の平定がなったわけではなく、2年後の天正16年(1588)9月、秀長は熊野北山地域の制圧を開始している。この侵攻は、冬の降雪によるものと思われる帰陣を挟みながら、翌天正17年(1589)4月にようやく攻略がなった。

 秀長が紀伊に入部したのは天正13年(1585)のことであり、それから足かけ5年のすえに、ようやく全域の平定を遂げたことになる。

家康従属の手柄を携えて
豊臣政権No.2に登りつめた

 時代は戻り天正14年9月、秀長は紀伊熊野攻めを家臣に任せて郡山城に帰還し、翌月に大坂に上った。これは上坂する徳川家康を接待するためであった。

 なお、このとき家康は初めて秀吉に出仕することになるため、その安全の保証を求めており、秀吉はそれに応えて母の大政所を「人質」として三河に派遣している。

 ただし、天下人が母を人質に出すことは世間体が良くなかったとみえ、表向きは家康に嫁いだ娘・朝日との対面のためとされていた。

 同年10月26日、大坂に到着した家康は、取次を務めていたと思われる秀長の屋敷を宿所としている。家康の、大坂城での秀吉への出仕は翌日の予定だったが、この日、秀吉は秀長の屋敷を訪れて、自ら酌をして家康を歓待した。