最終的にプロ野球コミッショナーの金子鋭の「強い要望」により、江川は交渉権を獲得した阪神と契約を締結して入団した上で、同日中に巨人軍エースの小林繁との交換トレードで移籍するという極めて異例の形で、巨人軍に入団することとなった。
江川事件の事後処理過程で、渡辺は初めて野球協約を学ぶ必要性に迫られていった。球界との接点の振り出しの時点から野球協約と深く関わっていたことに、その後の渡辺と協約との深い因縁を感じさせるものがある。
この野球協約に精通していったことが、後の渡辺本人、そして球界にとって極めて大きな意味を持つことになる。
競争のないドラフト制度が
巨人軍を弱体化させた元凶
江川事件の一三年後の一九九一(平成三)年に、読売新聞社の社長に就任した渡辺は、言論活動のみならず、巨人軍の強化に向けても動き出す。
その手始めに打ち出したのが、「逆指名制度」の導入だった。逆指名制度とは、ドラフト会議の上位候補選手が希望球団に入団できる制度である。ただ当時、ドラフト制度の理念を形骸化させるとの懸念も上がっていた。
ドラフト制度は、一九六五(昭和四〇)年、球団間の戦力均衡を図ることを目指して導入された。ドラフト導入以前の高度経済成長時代、セ・リーグは巨人軍の「一強」状態であった。
一九六五(昭和四〇)年から一九七三(昭和四八)年にかけては、巨人軍は前人未踏の九連覇(V九)を達成した。その背景には、長嶋茂雄、王貞治はじめ柴田勲、末次利光、森昌彦(後に祇晶と改名)らの当時の主力選手の大半を、ドラフト制度導入前の時代に自由に獲得できたこともあったと指摘される。
巨人軍は伝統のブランド力と資金力で、好選手を一手に集めることが可能だったのだ。
しかし九連覇達成後、ドラフト制度による戦力均衡の浸透や主力選手の高齢化も相俟って、巨人軍は一九七五(昭和五〇)年にはリーグ最下位、一九七九(昭和五四)年にはリーグ五位と低迷、一九八〇年代にもリーグ優勝は四度にとどまり、全盛期からの戦力低下が指摘されていた。渡辺が読売新聞社長に就任した後も、一九九一(平成三)年にはリーグ四位、一九九二(平成四)年にはリーグ二位、一九九三(平成五)年にはリーグ三位と優勝から遠ざかっていた。







