写真はイメージです Photo:PIXTA
いじめ動画の拡散や、それに伴うネット上での私的制裁をめぐる議論が続いている。被害者が救われる現実がある以上、こうした動きを一概に否定することはできないし、私自身も感情的には加害者への厳罰に強く共感してしまう側だ。だが、正義感が集団化したとき、それは容易に暴走する。SNSという装置がその加速装置になっている今こそ、一度立ち止まり、私刑がもたらすリスクと、私たちが本当に求める救済のあり方を冷静に考えてみたい。(フリーライター 武藤弘樹)
気づかないうちに
「私刑」に賛成してはいないか?
いじめ動画の拡散や私刑の是非について議論が続いている。尖っていたり感情的な意見にこそ賛同したくなるのだが、ここはすぐにそこに乗っかることなく、一旦深呼吸をするべき場面かもとも思うのである。
なぜならこのような局面こそ正義が暴走しやすいからである。
と、理性的なような博愛至上主義のような意見をのっけから表明はしたが、我が気質は真反対であって、感性はかなり私刑に賛成しがちである。
外科医の父親が娘を失った復讐のため犯人を監禁して拷問や人工肛門を付ける手術を施す映画『7 DAYS』(カナダ・2010年)は、残虐な描写だけにスポットが当たらず私刑や復讐の是非を巡って議論がわかれた問題作だが、筆者は完全に父親を応援していた。
また、法で裁ききれなかった凶悪犯罪者を主人公たちが被害者・被害者遺族に寄り添う立場から復讐・私的な制裁と称して拷問を施すマンガ『善悪の屑』およびその続編の『外道の歌』(渡邊ダイスケ・2014-2023年)も、主人公サイドを支持して読んでいた。
こうした自分の傾向を自覚しているからこそ、今ちょっと立ち止まりたい。







