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映画『国宝』は、単なる歌舞伎役者の成功譚ではない。本作が浮き彫りにするのは、生きた人間が「国宝」と呼ばれる苦悩や、個人の欲望を削ぎ落とし文化を背負わされる宿命だ。人間国宝の在り方について考えていくと、映画『国宝』のタイトルに込められた裏のテーマが見えてきた。※本稿は、批評家の酒井信『吉田修一と『国宝』の世界』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・編集したものです。
伝統を後世に伝えていく
人間国宝と人間天皇
そもそも生きた人間が「国宝」に指定される意味とは何なのだろうか。スマートフォンで映像・音声・テキストが記録・伝達できる時代に、生きた人間を「メディア」として、「伝統芸能」を後世に伝えていく意味とは何なのだろうか。
もちろん「後世に日本の伝統芸能を伝承するため」という説明は容易だろう。しかしなぜ生きた「人間国宝」が、伝統芸能を媒介する「メディア」として必要とされるのだろうか。
人間国宝とは、重要無形文化財(伝統芸能、工芸)の保持者として、文部科学省に設置された文化審議会で認定された人物の通称である。能や歌舞伎、文楽などの「芸能」の保持者と、陶芸や漆芸、金工などの「技巧」の保持者に大きく分けられる。これらの芸や技が次世代へと継承されれば、おおよそ伝統的とされる日本文化が保全されるという仕組みである。
吉田修一の『国宝』には、人間国宝とは何のために存在しているのか、という際どい問いが内包されている。
このような問いを突き詰めれば、過去に一部の文学者たちが思考してきたように、伝統の担い手としての天皇の存在について考えざるを得ない。







