「働いて、働いて、働く」を全否定する愚
「(国民のために)働いて、働いて、働く」
首相就任したとき、この言葉を真正面から口にした高市首相に、若者が共感を寄せている事実は、従来の政治分析では十分に説明されてこなかった。
昭和の日本人は「働き過ぎ」を指摘されて、サービス残業に歯止めがかからず、過労死も長らく問題化され続けた。それが緩和されたのは安倍・菅政権が進めた「働き方改革」からであった。
政治家とは、既得権を守り、責任を回避し、言葉を濁す「おじさん」の集合体である。そのようなイメージを持っていた若者にとって、ごまかさず発言する女性首相が新鮮に映った。
重要なのは、政策の中身以前に、「国民のために働く」という姿勢そのものが評価された点だ。成果が出るか否かではない。少なくとも、何かを成し遂げようとしている、その覚悟と態度に打たれた人が多かった。
ところが、野党やマスコミは、この高市首相の言葉を「過労死が問題になった当時に戻す気か」などと、挙げ足取りにしか思えない文脈で批判し、昭和世代がのちに植え付けられた「働くことは悪」というイメージのまま、頭の中が更新できていなかった。
言うまでもないが、高市首相が言った「働いて、働いて、働く」は、あくまで自分たち政権側が国民のために必死で働くことを意味した。政権をつくることは、政治家人生の中でも限られた少数だけの特権であり、この時期に自分たちの公約を果たすために必死に働くことは政治家にとって「本望」であり、国民にとって「当然」である。
実際、高市首相に好感を持った若者のあいだで、高市首相のファッションなどをまねする「サナ活」という言葉も生まれている。
近年、若者の政治参加はSNSを中心に「推し活」化している。政策というより、その言動、態度、行動様式などが重要な評価対象になるのである。高市首相はその文脈において「推せる政治家」となり、街頭演説や国会答弁が切り抜き動画として拡散され、「サナ活」と称して応援されている。
対照的なのが、リベラル野党の姿である。「働いて、働いて、働く」という言葉すら、「無責任な自己責任論だ」「ブラック労働を肯定する」として否定した。
若者の目に、そんな姿が「何もしないことを正義とする集団」に映っても仕方がないだろう。
国会での野党の振る舞いも、若者の失望を加速させた。ヤジ、揚げ足取り、言葉尻の批判。何かを実現しようとする与党に対し、「やらせない」「止める」ことだけに情熱を燃やす姿が、「建設的」に映るはずもない。
何かを成し遂げようと態度で表している高市首相に対して、立憲民主党などの野党はこれまでのように「何もやらせない」という立場で臨んだ。以前であれば「反自民」を明確にすればよかったのだろうが、SNS時代であらゆる言動が評価される時代にあって、あまりに時代錯誤的であった。
さらに、中国を現実的な脅威と認識する若者が増えているにもかかわらず、野党が昭和以来の反対姿勢を崩さないことも、致命的な乖離を生んでいる。
安全保障は若者にとっても、関心の高い分野になっている。それは台湾有事が現実のものとして認識されてきているからである。それにもかかわらず、十年一日のごとく「戦争をさせない」という言動で、安全保障政策を語る野党が魅力的に見えるはずもない。







