変化に抵抗するだけの日本的リベラリズム

 日本国憲法は、第二次世界大戦直後の理想主義的平和思想の影響を強く受けて制定された。その結果、国家の行使する暴力を極度に制限する構造となり、結果として左派・左翼に有利な枠組みを内包している。

 社会を変革し、現実に適応させるために制度改革を志向するのが本来のリベラリズムの姿である。憲法改正を主導するのはリベラル派、現行秩序を守る護憲が保守の役割というのが国際的には当然であるが、日本ではこの関係が完全にねじれている。

 左派・リベラルが護憲勢力となり、「憲法を一字たりとも変えさせない」と唱えることで、現実の変化に背を向ける存在となったのである。

 普通は、リベラル派というものは、社会を理想に近づけるために変化を求めるものである。ところが、日本のリベラル派の多くは護憲派であり、「現実への対応のために変えようとしている」保守に対して、「変化を邪魔する」という態度をとり続けてきた。

 安保法制も、憲法改正も、スパイ防止法も、すべては現実に対応しようとする変化の在り方であるが、日本のリベラル派はとにかく「変化させないのが正義」という態度で動きがちだ。

「変化させない」とは「何もしない」ということとイコールである。何もしない大人の姿が若者に魅力的に見えるはずがない。

 現行の憲法解釈では、日本を十分に守れないという認識は、すでに社会の多数派となっている。「憲法を変えたら戦前に戻る」という主張は、若者の目には非現実的な扇動に見えるだろう。

 私は拙書『日本学術会議の研究』で、安全保障政策を邪魔して「軍靴の音が聞こえる」などと扇動して反戦に結びつける態度を「軍靴病(ぐんかびょう)」と呼んだのだが、現在の立憲民主党や共産党、そして野党となって中国の脅威に対応しようとしない公明党の態度は「軍靴病」に見える。

 その結果、「何もしないために戦う」という矛盾に気づかないリベラル派は「未来を語らず、過去の亡霊と戦い続ける老人たち」というイメージを背負い込んでいる。当人たちのセルフイメージだけがいまだに「戦う政治家」のままだ。