「何もさせない」政治の末路
施政方針演説をヤジで妨害する行為は、政治的主張以前に、大人としての品位を欠く行為である。自民党の首相の施政方針演説をやじることは長年許容されていたが、高市首相が何をやりたいのかを知りたいと思っている政治に関心の高い若者が増えてきた現在、批判の対象となっている。
実際、かなりしつこくやじったと名指しされた野党議員はSNSで炎上してしまったのだが、半ば無視、半ば自己正当化したために、炎上がなかなか鎮火しなかった。
安全保障政策の強化に対して、「戦争させない」という言説で反対するのは、もはや論理的でないと考える人が大部分だろう。もちろん、安全保障政策の強化によって抑止力を高めると考えることは、国際的には「常識」レベルの考え方だ。
改憲議論に対しても、「戦争できる国にするな」という戦後平和主義の言語をそのまま繰り返す。その言葉が生まれた時代と、現在の国際環境がまったく異なることを理解しようとしない。
さらに、与党は悪、自分たちは善という二重基準が露骨である。長年マスコミを味方につけてきたことへの奢りは、皮肉にもマスコミ不信の高まりとともに、彼ら自身への不信へと跳ね返っている。
野党政治家の多くは、「文句を言う政治」には慣れているが、「政策を作り、実行する政治」には不慣れである。その限界は、新党「中道改革連合」で露呈した。公明党の政策ばかりが前面に出て、立憲民主党の政策的空洞が白日の下に晒されたのである。
そのうえ、そのわずかな政策ですら、普天間の辺野古移転を「ペンディング」にするなど、「決断しない政治」に終始している。野党の「何でも反対」=「何もさせない」という態度が時代錯誤に見える。
そもそも「反自民」以外の軸を持たない政党が、若者にとって魅力的であるはずがない。若者が何かに挑戦しようとしている高市首相に魅力を感じるのは当然だろう。
若者は「変える政治」を望んでいる
若者は過激さを求めているのではない。現実から逃げず、課題に向き合い、必要であれば戦う覚悟を持つ政治を求めているのである。
SNS世代の若者は、言葉と行動の一致を厳しく見ている。きれいごとを並べながら、何も変えようとしない政治家は、即座に見抜かれる。
高市首相の支持拡大は、右傾化でも保守回帰でもない。それは戦後の平和主義が抱えている「日本的リベラル政治」=「変化させない政治」への拒絶であり、「現実に向き合う政治」への希求である。
日本のリベラルが若者から見放された最大の理由は、理念ではなく態度である。戦わず、決断せず、現実から目を背ける姿が、時代遅れと判断された。
もしリベラルが再び支持を得たいのであれば、まず「何もしないこと」を正義とする姿勢を捨てる必要がある。現実を直視し、不都合な真実とも向き合い、必要であれば自らの立場を更新する覚悟が求められる。
政治とは、理想を語ることではなく、現実を引き受けることである。その覚悟を示せない限り、若者がリベラル派の言葉に振り向く日は当分訪れそうもない。
(評論家、翻訳家、千代田区議会議員 白川 司)







