しかし、彼は内容を理解するために懸命に努力し、出版にこぎつけた。

 この話を聞いて、大学の講読や読書会で、長い時間をかけても数行しか読み進められなかったことを思い出した。それでも、理解を深めようと努力し、理解できないからといって読むことを諦めることはなかった。

 理解できないところから理解しようと努力することと、最初から理解できないからと諦めることには大きな違いがある。

 考えながら読むことの対極に、速読がある。本の種類にもよるが、著者が何カ月も何年もかけて考えたことを、短時間で理解できるだろうか。私は理解できるとは思わない。

 速読する人はゆっくり考えようとしないだろう。速読する人は、その本に何が書いてあるか知ろうとする。だが、それによって知識を得ることができるが、知識を得ることは「考える」こととは異なる。

著者の意見をなぞるだけでは
自分で考えられるようにならない

 先に、独りよがりにならないように、読書は有用であるという話をした。その際に、その本が自らの考えの「抵抗」になることが望ましい。そのためには、著者の考えをたどるだけでは足りない。

 こうした「抵抗」としての読書に関して、三木清は、次のようにいっている。

「スペンサー曰く、ミル曰く、ショーペンハウエル曰く、カント曰く、などと云うことが沢山に出来れば私は得意であったし、またそんな断片的な知識で人を驚かすに十分であると信じていた。けれど真の哲学は他人相手の仕事ではなくして自己の魂の真摯なる労作である。私に哲学上の教養があったとするならば、それは“someone said”の哲学に関してであった。併しながら貨幣の種類を沢山に示し得る人が必ずしも金持ちではない」(『語られざる哲学』)

 知識を身につけたからといって自分で考えられるようにはならない。また、著者の考えをたどるだけでは、自己内対話としての思考にならない。著者の考えを理解し(あるいは、理解しようとし)、さらにそこに留まらず、自分の考えを深めなければならないからである。