「空気を読む」配慮は
相手の迷惑にもなる諸刃の剣
ここまで述べてきたように、不適切な配慮がもたらす結果には深刻なものが含まれますが、そもそも、なぜ配慮しているつもりが不適切になってしまうのでしょうか。
誰しも、自分の配慮が適切なものであることを願うわけですが、背後にある要因とその作用を知れば、不適切さを回避できることもあるでしょう。この点について、社会的な要因と個人的な要因のそれぞれから考えていきましょう。
まず、社会的な要因についてはどうでしょうか。配慮には他者の気持ちを察することが重要なのですが、言い換えると、うまく察することができなければ、配慮が不適切になる可能性が出てきます。
でも、他者の気持ちを察するのは難しい。ではいっそ、無理に察するなどということをせず、自分が思うままに振る舞えば良いかというと、なかなかそういうわけにはいきません。
社会の中には、察することや、さらには空気を読むことを重んじる文化的な規範があるのがその一因です。
このような規範は、多かれ少なかれ、どこにでもあるのですが、特に日本社会においては、強いと考えられています。また、周囲の人たちから浮かないように、拒絶されないようにと思うと、この規範に一層強く縛られることになります。
他者の気持ちや、その場で求められていることを察知して、それに応えるというのは、本来、人間関係を円滑にするための重要なポイントです。
しかし、そうしなければならないという暗黙の圧力を強く感じてしまうと、無理にでも何かしようとし、結果的に「ありがたくない」支援の提供になるのです。
たとえば、上司として配慮あるマネジメントをせねばと思う人は、疲れているように見える部下の様子を見て、他の人に仕事を回したり、帰宅を勧めたりするでしょう。
しかし、その部下が、仕事に強いコミットメントやプライドを持っているとき、また、自分なりのやり方で仕事を進めており、他の人に助けてもらうと、かえって後が大変という事情があったりするときはどうでしょうか。その部下にとっては、あまりありがたくない気遣いになってしまうかもしれません。
察する、空気を読む、これらは人間関係を円滑にする素晴らしい営みなのですが、とらわれすぎると、自分の判断を押し付けてしまい、相手には迷惑になるという諸刃の剣です。察することへの社会的な規範を強く感じるときこそ、過剰な干渉や不要な支援になっていないか、振り返ることが必要なのです。







