なぜ実現しなかったのか
武蔵野南線「旅客化」構想

 武蔵野南線の開業で、東海道線と東北・高崎線の相互間列車が山手貨物線経由から武蔵野線経由に変更された。山手貨物線(池袋~田端間)の運行本数は上下計204本から93本に、武蔵野線(新座~西浦和間)の貨物列車は上下23本から152本となり、武蔵野線は名実ともにバイパス路線となった。

 南武線の貨物列車の多くは武蔵野南線に移行し、南武線の通勤輸送力増強が図られた。また、品鶴線は横須賀線に転用されることになり、1980年に旅客化した。武蔵野南線が貨物に専念したことで、周辺線区の輸送改善が進んだこともまた事実である。

 ところが武蔵野南線の開業時点で、国鉄の貨物輸送量はピークを超えて減少に転じていた。並行して国鉄の経営は加速度的に悪化し、1980年に国鉄再建法が制定されると、巨額の赤字を生む貨物部門の整理、縮小が進められた。1985年の貨物輸送量は1970年のおよそ3分の1まで減少した。

 こうした状況を背景に、1985年の運輸政策審議会答申「東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について(答申第7号)」は「貨物線の旅客線化」を打ち出し、武蔵野南線を活用した府中本町~新川崎~川崎間及び、武蔵野南線から分岐して新百合ヶ丘に至る接続線の整備を提言した。

画像:東京圈高速鉄道網図(横浜・川崎周辺)
運輸政策審議会答申第7号で示された旅客化案(答申添付図を加工) 拡大画像表示

 答申を受けて川崎市は、新百合ヶ丘から地上駅である梶ヶ谷貨物ターミナルまで新線を建設して武蔵野南線に乗り入れ、梶ヶ谷から新鶴見信号場まで武蔵野南線を進み、新鶴見信号場付近から川崎方面の新線に乗り入れる方針を決定した。

 しかし、国鉄分割民営化を経て武蔵野南線の旅客化は暗礁に乗り上げる。貨物全廃もささやかれた国鉄末期とは異なり、民営化後のJR貨物は貨物列車の大幹線を手放すつもりはなく、旅客列車を運行する余地はないと拒否したのである。

 同線は大部分が地下20~40メートルにあり、地上駅は梶ヶ谷貨物ターミナルのみ。それ以外の区間に駅を新設すれば巨額の費用が必要だった。また、貨物線が終日運行している中での工事となり、工期の長期化とそれに伴う事業費の増大が予想されることから、コスト面でもメリットはなかった。

 武蔵野南線は今も貨物専用線として運行されているが、一般人でも乗車機会はある。筆者は高校時代、大宮~藤沢間の貸切列車に乗車した。当時は鉄道に興味がなかったが、盛り上がる友人がいた記憶がある。

 貸切列車はハードルが高いが、吉川美南~鎌倉間を結ぶ臨時特急「鎌倉」なら手軽に乗車できる。今春は3月20、21、28日、4月4、11、18、25日、5月2~5日、6月5~8、12~14、19~21、26~28日に設定があるので、興味があればJR東日本のウェブサイトを確認していただきたい。