iPS細胞の現在と課題
最近では、iPS細胞由来の網膜細胞が移植10年で異常がないことが明らかになったり、国民病といわれる「膝の痛み」に対して、iPS細胞からつくった軟骨細胞を注射する治療法が開発されたり、2025年の大阪万博ではiPS細胞由来の心筋シートが展示されたりもしました。
そのほかにも、血小板減少症に対してiPS細胞由来での自己輸血の臨床研究が行われていたり、1型糖尿病で自己免疫が破壊された膵臓細胞に代わってiPS細胞から作製した膵臓細胞シートの移植による治療が2030年代に実用化を目指すなど、身体のあらゆる場所で、iPS細胞を活用した治療の開発が進んでいます。たとえば、脳疾患などにも有効なのでしょうか。
もちろんです。早ければ2026年には承認される可能性のあるパーキンソン病の治療(注)のほか、アルツハイマー型の認知症や、より患者さんの多い脳梗塞などにもiPS細胞を使った治療の研究を現CiRA所長である髙橋淳先生や井上治久先生たちのグループが一生懸命進められておられます。中枢神経という意味では、脊髄損傷に関しては慶應義塾大学のグループが取り組まれていますし、全身の筋肉が動かなくなるALS(筋萎縮性側索硬化症)についても、iPS細胞を使った薬の開発が世界中でものすごい勢いで進んでいます。
【注】2026年2月、厚生労働省の薬事審議会において、iPS細胞を用いた再生医療等製品の製造・販売が承認され、これによりiPS細胞技術はいよいよ研究開発のフェーズから、一般の医療現場へと届ける「社会実装」のステージへと移行。
そうした研究開発活動には継続的な投資が欠かせません。しかもiPS細胞の場合、その作製に多額のコストがかかるため、相応の資金が不可欠だと聞きます。一方、ある部分では、大幅にコストが低下したとも聞いています。
iPS細胞作製では、GMP(good man-ufacturing practice)レベル、わかりやすく言うと、人間に投与する細胞や医薬品を作製する施設が満たすべき極めて厳格な品質管理レベルをクリアした施設・設備・管理が必要で、これだけでも相当なコストです。それゆえ「iPS細胞を1株作製するだけで数千万円」という状態が続いていました。
また、初期化因子の導入に使う試薬も非常に高価ですし、iPS細胞は繊細なので、成長しやすいように栄養や成長因子が調整された特別な培地(育成するための環境)を用意しなければなりません。これも特殊で価格が高い。無菌環境を維持するにもお金がかかります。
加えて、作製効率も低かった。当初の初期化の成功率は0.01~0.001%台、つまり、1万~10万個の細胞からわずか数個のiPS細胞しか作製できないため、高額な試薬が膨大に必要でした。
言うまでもなく、品質を確認するにも膨大なコストがかかります。iPS細胞は「本当に多能性があるか」「遺伝子的に異常がないか」を検証するため、ゲノム解析、形態観察、多能性試験などが必須で、これらも非常に高額です。
こうした要因が積み重なり、前述のように、初期は1株当たり数千万円規模のコストがかかっていました。
しかしその後、ウイルスを使わない作製方法が開発され、GMP要件を満たしやすい方法が確立されました。そのほか、培地の改良、検査コスト、大量生産によるスケールメリットなどによって、iPS細胞作製コストは、低下していますが、臨床用は価格が下がったとはいえ依然高額で、その作製は数千万円規模です。
このようにコストがかかりますから、CiRAは常に資金繰りに悩まされてきました。この悩みはコストダウンがかなり進んだ現在も変わっていません。
大学や研究所の研究活動費には、大きく2種類あります。「基盤的資金」(もともと研究室に割り当てられる資金)と「競争的資金」(研究者が公募に応募して審査を通った場合だけもらえる資金)です。
iPS細胞の研究活動は、いままでお話ししたように非常に高コスト構造です。しかも競争的資金に強く依存していました。
世界を見回すと、生命科学系のビッグサイエンスは、大企業やベンチャーとの連携、寄付に支えられています。CiRAは世界最先端の研究所なのに、当初の収入源はほぼ国からの研究費のみでした。国内の再生医療全体に対する国の支援は2013年から10年間で1100億円の集中投資でした。CiRAもこの予算の一部を「iPS細胞ストックプロジェクト」をはじめとするプロジェクトに支援いただいていましたが、研究開発活動はその後も続いていくことはわかっていましたから、「時限的」なもので、長期安定資金ではありませんでした。
そのような厳しい環境にあって、iPS細胞研究を支えている資金は主に何ですか。山中先生はさまざまなところで、寄付のお願いを呼びかけられています。具体的な活動や実績を教えてください。
iPS細胞研究を支えている資金は、大きく分けて「国からの公的研究費」と「民間からのご寄付」の2つです。これらはそれぞれ異なる性質を持ち、両方が揃って、初めて研究と実用化が進んでいきます。
まず、予算の基盤となるのは国からの公的研究費です。この国から配分される研究費は基本的に「プロジェクト単位」で支給されるものであり、その期間は数年と限定されています。研究プロジェクトには利用できますが、先ほど申し上げたような、高度な技術や経験を併せ持った職員を定年まで正規雇用するための人件費や、長期的な組織運営、あるいは予期せぬトラブルへの対応やすき間を埋めるような活動には使いにくいという側面があります。
そこで不可欠となるのが、民間の皆様からの「ご寄付」です。iPS財団の設立や、多くの職員の正規雇用、そして死の谷を越えた技術を企業や患者さんに届けるための活動資金は、多くの方々からのご寄付によって支えられています。
私はいまも研究者ですが、同時に組織の長として、資金集めにも奔走してきました。具体的には、私自身の趣味でもあるマラソンを活かして、京都マラソンなどで走ることを通じて寄付を呼びかけるチャリティランナーとしての活動を行いました。また、チャリティコンサートや、日本各地での講演を通じて、iPS細胞研究の現状をお伝えしてきました。CiRAには寄付募集を専門とする担当職員も配置し、組織的に寄付を募る体制も整えました。
こうした活動を続けた結果、本当に多くの個人や企業の皆様からご支援をいただくことができました。
そもそも、財団設立の基金を準備できたのも寄付のおかげです。また近年では、ファーストリテイリングの柳井正氏から財団に総額45億円のご支援をいただきまして、その一部を使って大阪・中之島に前述した「Yanai my iPS製作所」を開設することができました。この施設は、高品質なiPS細胞を低コストで作製することを目指している「my iPSプロジェクト」の心臓部となっています。
大学等の非営利機関にはiPS細胞ストックを無償で、企業にも1株当たり10万円程度という破格の低価格で提供できているのも、営利を目的としない公的資金や寄付金によるバックアップがあるからです。
もし寄付金がなければ、細胞の価格を高く設定せざるをえず、結果として治療費が高騰し、患者さんに届きにくいものになってしまいます。iPS財団が目指す「最適な技術を、良心的な価格で届ける」という使命は、皆様からのご寄付によって支えられているということはぜひとも広く知っていただきたいと思います。



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