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前回のこの連載では「重商主義が亡霊のように蘇っている」ことを伝えました。そして、現代の経済の荒波を理解するためにも、“元祖”重商主義の遠因ともなったマルコ・ポーロの軌跡を辿ってみようと提案しました。元週刊ダイヤモンド編集長が高校生向けに実施している授業「大学の経済学入門」をもとにした連載『経済学タイムトラベル 歴史を動かした経済思想家たちの軌跡』。今回は、本格的にマルコ・ポーロの旅路をなぞっていきましょう。すると「モンゴル帝国は残虐で野蛮」という認識は間違いで、「情報」に価値を見出し合理的なシステム運営をし、まさしくグローバル経済圏の先駆けだったことがわかるのです。(コラムニスト 坪井賢一)
モンゴル帝国はルール無用で日本を攻める一方で
情報に価値を見出し合理的な大経済圏を築いていた
前回の授業では、「現代の経済の大きな潮流を理解するためにも、マルコ・ポーロの旅路を辿ってみよう」と話しました。早速、細かく見てみましょう。
「マルコ・ポーロの旅行」と、よく言われますが、実は全てを彼が一人で成し遂げたわけではなく、東方への大旅行は彼の親族や家族によるものも含むのです。大旅行は2度ありました。
まずは、父親のニコロ・ポーロと叔父マテオ・ポーロ二人の旅行でした。1260年にコンスタンティノープルを出発し、モンゴル帝国の皇帝クビライ(★注1)に大都(北京)か上都(大都の北方300kmの副都)で会ったのは1264年か65年。旅の目的は冒険ではなく、もちろん商売、取引、交換(ディール)、交易(トレード)です。
生徒D:ヴェネツィアから大都(北京)まで横断する徒歩の旅行ですよね。危険じゃなかったんでしょうか?
いえ、徒歩旅行というわけではありません。大半は騎行(馬旅)でしょう。父ニコロと叔父マテオがヴェネツィアを出たのは1253年、コンスタンティノープル(イスタンブール)までは地中海、エーゲ海の海路で、この地で商取引に6、7年従事し、海路で黒海のクリミア半島の南端ソルダイア(現ウクライナのスダック)へ向けて出発したのが1260年です。マルコが生まれたのは1254年ですから、父ニコロはわが子マルコの誕生前に出発していることになりますね。
二人が上陸したクリミア半島のソルダイアはヴェネツィアが支配していた時代もあり、ポーロ家も交易活動の拠点にしていたようです。1260年か61年のソルダイアは、モンゴル帝国のイル・ハン国(建国1258年)が支配を始めた直後で、無事に長距離を旅行できる条件が整いました。それがパクス・モンゴリカ(モンゴルによる平和)です。すでに遊牧民族の帝国の版図ですからね、騎行のための準備はできていたでしょう。
モンゴル帝国は13世紀にユーラシア大陸の大半を支配下に置きました。この広大な帝国では、組織的な治安維持が行われ、交易路の安全がほぼ確保されていました。皇帝クビライは交易を重視し、さまざまな民族の商人を保護する政策をとりました。武力で周辺の国を制圧すると、積極的に商人を保護し、敗者の軍人や役人にはそのまま権力を与えて統治に使っていたことになります。あまりにも広大な帝国なので、そうでもしなければマネジメントできなかったということもあるでしょう。したがって宗教にも寛容で、さまざまな宗派が活動していました。
生徒E:マルコ・ポーロ一行以外にも西洋から入国した人はいたということですね。
かなりいたはずですよ。大都には東南アジア、インド、中央アジア、中東、北アフリカから多様な商人が集まりました。すでにキリスト教の宗派も活動していたそうです。ただ、精密な記録を残したのはマルコ・ポーロだけです。
生徒E:商人を保護して通行も自由?あれれ、モンゴルといえば、騎馬民族で勇猛というか、野蛮で残虐な種族だと思っていましたが。
う~ん、それは違いますね……。
【次のページ以降のポイント】
(1)モンゴル帝国内のビジネストリップを可能にした仕組み
(2)モンゴル帝国軍の日本侵攻とマルコ・ポーロ
(3)初めてヨーロッパにジパング情報が伝わる







