毛沢東・朱徳が率いる紅軍はゲリラ戦や機動戦術で国民党軍をなんとか撃退しましたが、第五次では、蒋介石が約50万人を動員し、さらにドイツ人軍事顧問の助言を受けた近代戦術によって、紅軍は敗北、江西ソビエトを放棄し、「長征」に突入せざるを得なくなります。

 今日では「長征」として英雄的に語られていますが、当時の実態は敗走に近いものでした。紅軍主力が陝西省延安に到着した時には、出発時に8万人強いた兵士は数千人にまで減っていました。ちなみに、陝北に拠点を築いて紅軍を迎え入れた功績を持つのが、習近平の父である習仲勲です。

 第三次囲剿作戦が行われた時期(1931年)に、ちょうど満洲事変が勃発します。日本の脅威・勢力拡大が顕在化していたにもかかわらず、蒋介石は第四次、第五次の囲剿作戦を断行しました。つまり、蒋介石は抗日よりも共産党征伐を優先すべきだとの考えを変えなかったわけです。

 しかし、この方針に対しては国民党内部や社会全体から「抗日こそ優先すべきだ」という批判が強まり、蒋介石に対する不満が高まっていきます。これこそが、1936年12月の「西安事件」が発生する大きな背景となったのです。

国民党は共産党よりも
日本軍を叩くべし

垂:「西安事件」直前の状況は、紅軍が延安に拠点を再構築しつつある一方で、国民党軍がこれを包囲・圧迫する軍事行動を継続させていた、というものでした。こうした切迫した状況の下で、毛沢東はコミンテルンの指示のもと、生き残りをかけて積極的に「抗日救国」の旗を掲げました。

「我々は日本と戦う用意がある、蒋介石も抗日に転じるべきだ」というスローガンは、世論や知識人、青年層の広い支持を集めます。軍事的には劣勢でも、「抗日民族統一戦線」の旗によって政治的・道義的に優位に立とうとする戦略が奏功したのです。

 そうしたなか、1936年12月、長年蒋介石の共産党征伐に従事していた張学良(張作霖の子)、楊虎城が蒋介石を西安で幽閉するという事件(西安事件)が発生します。そこに共産党の周恩来らが調停に赴き、交渉の結果、蒋介石は内戦停止と抗日戦への協力などに一定の妥協を行って軟禁から解放されます。これが第二次国共合作につながりました。