毛沢東の基本指示は、主として農村地帯でゲリラ戦を行うというものでしたが、共産党軍内部には日本軍と真正面から戦いたいと考える者も少なくありませんでした。国民党に主力の抗日を担わせながら、自らは勢力温存に努める方針に不満もあったのです。百団大戦への大規模な参加は、こうした意識の反映とも言えるでしょう。

 百団大戦で共産党は日本軍に一定の勝利を収めたものの、毛沢東自身はこれを評価しませんでした。毛沢東にとっては「兵力の消耗が大きすぎる」「戦略的な持久戦路線に反する」との強い不満があったのです。その主力指揮官であった彭徳懐は、建国後にこの戦いを含む経歴が批判の対象となり、毛沢東から厳しい糾弾を受けて失脚してしまいます。

抗日戦争勝利の功績は
共産党の手柄にすり替わった

垂:その後、百団大戦に対する評価は時代が変わり大きく変化しました。直近では2025年7月7日、「抗日戦争勝利80周年」に際して、習近平自らが百団大戦記念碑広場を訪れ献花しています。

 習近平としては、共産党の正統性を強調するために抗日戦争勝利を利用したいとの思惑があるものの、実際には国民党軍こそが主に日本軍と戦っており、共産党は逃げ回っていたということでは都合が悪いからです。

 もっとも、百団大戦の結果、日本軍も「共産党軍も予想以上に強い」と認識を新たにしました。もともと日本軍は共産党の軍事的存在をそれほど重視していませんでした。ゲリラ戦を展開する共産党軍は追撃してもすぐに散開し、日本軍は大都市の制圧と維持に重点を置いたため、主に国民党軍を相手に戦っていた。

 その結果、もともと軍事的に優勢だった国民党は次第に消耗して力を落とし、その間に共産党の基盤が農村部で強化されていきました。この構造が、のちの国共内戦で最終的に国民党が敗北し、共産党が勝利する一因となったと言えるでしょう。

書影『中国共産党が語れない日中近現代史』(兼原信克、垂 秀夫、新潮社)『中国共産党が語れない日中近現代史』(兼原信克、垂 秀夫、新潮社)

 これがおおよその共産党の抗日戦争の実態と言えます。毛沢東は持久戦の戦略を掲げ、日本軍と蒋介石を同時に消耗させつつ、自らの勢力を拡大するという方針をとり、結果として両者を弱体化させることに成功しました。

 長期的視野をもった稀代の戦略家であったと言えるかもしれません。それに比べ、当時の日本政府および軍部は盧溝橋事件を契機に中国に対する全面戦争を展開する中で、明確な政治目的や終戦構想を欠いたまま泥沼化していきました。日本側の戦略性の欠如は明白でした。

兼原:蒋介石は辛かったでしょうね。本当は共産党を叩きたいのに日本と戦わざるを得なくなって。

垂:すでに触れたように、盧溝橋事件が結果的に毛沢東を救った形になりました。蒋介石はさまざまな意味で厳しい状況だったと思いますよ。