蒋介石にとっては、共産党との協力への転換は不本意なものであったはずです。共産党掃討を「完全撲滅」とまで掲げ、追いつめつつあった矢先に西安事件が発生したのですから。その後まもなく盧溝橋事件(1937年7月)が勃発したことは、結果的に共産党の「命綱」となりました。
蒋介石もやむなく「まずは抗日」を優先せざるを得なくなり、正式な第二次国共合作の成立(1937年9月)を経て、国民党は日本との全面戦争に引きずり込まれていったのです。
「日本軍と戦うのは1割でよい」
毛沢東のしたたかな戦略
垂:以下は歴史の「if」になりますが、盧溝橋事件がなければ、第二次国共合作は成立しなかったであろうし、たとえ成立したとしても、もし日本が対中全面戦争に踏み切っていなければ、第一次国共合作の時のように、蒋介石によって再び反故にされていた可能性があると思います。
盧溝橋事件の発生と、それに続く華北・華中での日本軍との全面衝突によって、蒋介石も従来の内戦優先方針を転換し、抗日を最優先せざるを得なくなったからです。
毛沢東は戦後、訪中した日本人に対し「日本に感謝する」と繰り返し語っていますが、これはある意味で彼の本心であったと考えられます。例えば、1956年、遠藤三郎元陸軍中将に対し、「日本の侵略があったからこそ中国人民は団結し、共産党も勝利できた。日本は良い教師だった」との趣旨の発言を行なっています。
第二次国共合作の後、毛沢東が示したとされるものが、いわゆる「721指針」です。すなわち「共産党軍の7割は力を温存して、農村で拠点を増やす。2割は国民党と共に戦っているように見せる、日本軍と戦うのは1割でよい」という方針でした。
先ほど兼原さんが触れた百団大戦は、共産党軍が正面から日本軍と戦い、一定の勝利を収めた唯一とも言える戦いです。「団」というのは連隊のことで、100を超える連隊が参加したためにこう呼ばれました。戦場は山西省、すなわち北京の南西部にあたり、数十万規模の日本軍と共産党軍による戦闘が数カ月にわたり断続的に展開されました。







