2Gから3Gに移る転換期、経営陣と対立

「写メール」で世界を変えたJ-PHONEはなぜ消えたのか?「写メール」の生みの親、高尾慶二氏 Photo:ZEN University

――2001年にJ-PHONE(東京デジタルホン)はボーダフォンに買収されます。当時はどんな状況だったんですか?

高尾:当時は2G(第2世代移動通信システム)から3Gにシフトするという端境期でしたので、2Gの設備投資を止めるというボーダフォンの決定がありました。ただ、当時のJ-PHONEの3Gはまだ不安定だったのですぐにシフトするのは難しい。現場サイドはそれで経営側と激しく対立しました。当時のJ-PHONEは写メの勢いがあったので、とりあえず2年間は持ったのですが、最終的に設備投資は止まりました。

――新しいサービスを展開できなくなったんですね。

高尾:ユーザーは新しいものが出てくるからこそ、携帯を買い替えます。ドコモとauは買い替え促進のために新しいJavaのゲームを出したり、音楽プレーヤー付きモデルを出したり、いろんなラインナップをどんどん増やしていく。しかし、J-PHONEでは何も出せなくなってしまったんです。それで会社に見切りを付けて、辞めることを決断しました。

仕様書の「半分」を埋める作業~ドコモ・auとは開発体制がまったく違った

――少し話は戻りますが、出向当時はどんな感じで開発されていたのでしょうか。

高尾:携帯電話の開発手法ですが、ドコモやauではすでに先行しており、長い年月をかけてものづくりをしていました。端末をつくる端末屋さん、ネットワーク・伝送交換システムをつくる専門家、基地局をつくる専門家と、みんなばらばらに各担当部門があったんですよね。

 しかし当時のデジタルホンは、みんな寄せ集めで来ていましたから、端末をつくり、ネットワークをつくり、基地局をつくりと、全部一からつくらなければいけない。あるのは「RCR STD27」(デジタル方式自動車電話システム)という分厚い仕様書だけでした。これは国の、今でいうARIBという電波産業会(一般社団法人電波産業会)がつくった仕様書で、基本的にドコモがつくった仕様なんです。

 ところが仕様書って不思議で、書かれていないことが半分ぐらいあるんです。ものづくりというのはそういうもので、実際につくっているときに実地でしか現れてこない、ちょっとしたノウハウが仕様書とは別に存在する。われわれは、それがまったくないので大変でした。

――試行錯誤の末に、ようやく完成したんですね。

高尾:94年4月1日に通話ができる端末を世に出しました。でも、音声系から非音声系、97年のショートメッセージサービスが始まるまでの3年間は音声系のサービスだけで戦っていた。だからシェアは全然伸びなかった。このまま会社として存続できるんだろうかというのが3年ぐらい続いた。エリアも狭かったので、どこまで電波が飛んでいるんだろうというので、自分たちで車を運転して端末を持って、電波の強度を測定したりしていましたよ(笑)。