1日12時間、厨房に立ち続ける。300人分のトンカツを揚げ終えた頃には、ギターを握る余力すら残っていなかった。それでも成田昭次は、音楽を手放さなかった。男闘呼組の再始動を見据え、仕事と音楽の両立にこだわり続けた日々。過酷な現場の中で、彼は何を支えに歩み続けたのか。※本稿は、成田昭次『人生はとんとん―成田昭次自叙伝―』(集英社)の一部を抜粋・編集したものです。
社員寮で過ごした生活が
音楽業界復帰への準備期間に
写真/井村邦章
2009年9月27日午後11時――。上京後、昭次は予定通りリズメディア(編集部注/昭次が所属することになった芸能事務所)の社員寮で暮らし始めた。
戸建ての社員寮にはギターが弾けるスペースも完備されていた。「僕の部屋は多分、寮でいちばんいい部屋で。本当にいい環境を用意していただきました」と昭次は振り返る。
同居人は3人。その中のひとりが、アートディレクター、映像ディレクター、フォトグラファーといったさまざまな肩書きを持ち、ピチカート・ファイヴ、フリッパーズ・ギター、松任谷由実、Mr.Children、サザンオールスターズ、SMAP、MISIAなどの数多くのアーティストのCDジャケットを手がけた巨匠・信藤三雄だった。
「寮に水色のギターが置いてあったんですが、信藤さんのギターでした。信藤さんご自身もバンドをされていて。僕、ニルヴァーナのカート・コバーンも好きなんで、カート・コバーンが水色のギター使っていたのを思い出して。そしたら、信藤さんもやっぱり好きで。世代がけっこう違うのに共通して好きなアーティストがいたっていうのはすごいうれしかったです」
時折、昭次は信藤とリビングで歓談した。







