同書より転載

 羽田競馬開催日には、現・京浜急行空港線に臨時停留場が開設された。場所は現・穴守稲荷駅の西側、首都高1号線をくぐってすぐのところ。高速道路の下は古くからの堀割で、かつての線路には、この堀を渡る橋があった。臨時停留場はその橋の大鳥居駅寄りのたもとに作られた。

「入船耕地」の競馬を主催したのは「荏原郡馬匹畜産組合」。『沿革史』によると、組合長は山岸謹二、「競馬開催執務一切の組合代表者」は杉崎欽八となっている。実はこの杉崎欽八こそ、羽田競馬の屋台骨を支えた“最重要人物”なのだ。

競馬の開催に意欲を燃やしていた
馬力運送店の経営者・杉崎欽八

 杉崎は現・JR大森駅前や京浜急行平和島駅付近で「三ツ輪組海陸運送店」を営んでいた。当時の地図には「杉崎馬力店」という表記も見られる。それからもわかるように、運送店の主力は馬だった。同氏の長女・佐喜子さん(故人)が記した『冬萌・父の思い出』によると、佐喜子さんが6歳くらいの時(1921=大正10年頃)、店には馬が「三十頭ほどいて、毎朝たいそう賑やかだった」そうだ。

 杉崎は“馬力運送店”の経営にとどまらず、競馬の開催にも意欲を燃やしていた。関東大震災直前の1923(大正12)年3月、同氏は有志数名とともに、自宅近くの大森海岸埋立地で「京浜競馬大会」を開催する。これには、翌4月の競馬法成立を見越して、競馬主催の既得権を確保しておきたいという思惑があったものと思われる。

 この競馬は羽田のルーツだ。ところが、主だった競馬歴史書にも大森競馬に関する記述はなく、“幻の競馬”となっている。唯一の資料は、ある事件に関する同年3月5日付けの新聞記事。ここでは、『都新聞』(『東京新聞』の前身)から原文をそのまま引用する。