当然ながら「地主始め工事請負人商人等ことごとく執務一切の代表者杉崎欽八宅に押寄せての厳談」(『沿革史』)という事態に至る。これに対し杉崎は「個人保証で高利の借財をして」(同)すべての支払を完了、責任を果たした。
その直後、地方競馬規則公布に伴って、荏原を含む府内9つの畜産組合は「東京府馬匹畜産組合連合会」を結成。同府に認められた競馬場の数は1カ所だったため、あらためて開催場所を定めることとした。
「なるべく既設競馬場で開催する」と事前に申し合わせた上で多数決に委ねたのだが、なんと江東組合の多数派工作が奏功して同地区での開催が決定。洲崎の埋立地に砂町競馬場が新設され、せっかく先手を打って7月の競馬を開催した羽田は、たちまち閉場に追い込まれた。
砂町競馬が存続不能となり
羽田競馬が復活を果たす
砂町競馬場が作られたのは、現・江東区新砂1丁目の、江東運転免許試験場やゴルフ練習場があるあたり。最初の競馬は同年11月に行われた。都心から近いこともあって、客足も馬券の売上も上々。
『競馬史発掘 正史に書かれなかったあんな話こんな話』(矢野吉彦・講談社)
当時の競馬雑誌『馬の世界・昭和2年12月号』には「眺望絶佳なる上に用地が広いからスタンドを初めその他建造物等将来いかようにも理想通りに改築が出来、回を重ねるにしたがってひとかどの競馬場になるであるうと評判されていた」という記事が載る。ところが、翌年4月の開催直後、莫大な使途不明金が生じるなどの乱脈経営が発覚。砂町競馬は存続不能となってしまった。
その結果、同年秋以降、再び開催場所が羽田に戻されることになった。砂町の不始末によって生じた負債約3万2000円は、またしても杉崎が個人負担。ひとまず5000円を支払い、残額は羽田競馬の開催ごとに、その売上から2000円を順次返済することとした。
ちなみに、砂町競馬場跡地の西側には、後に洲崎球場が建設され、巨人軍・沢村、タイガース・景浦が相まみえた日本プロ野球初の年度優勝決定試合(1936年=昭和11年)の舞台となった。
話を競馬に戻す。杉崎は、羽田競馬再開のための資金集めに奔走した。『沿革史』は「杉崎家の存亡をかけての金策は涙ぐましいものであった」と記している。ひとまず同氏の奮闘は実を結び、羽田競馬が復活した。







